信仰とは、「怖れからの解放」としての福音を信じることだと言われます。それは「解放」の音ずれであります。また、ギリシア語で「罪」を意味するハマルティアという語の原義は「的を外す」という意味だとされます。福音とはだから、人間が神との正しい関係から「的はずれ」となって罪の奴隷となった状態からの解放の喜ばしい「知らせ」(Good News)なのです。その意味でそれは、現代風に言えば「人間疎外」という名の奴隷状態からの人間解放の福音でもあると言えます。
けれども、キリスト教界は果たして本当に恐れからの解放の福音を人々に伝えているのでしょうか。その実態はかえって逆に「怖れに根ざした信仰」になっていないでしょうか。わたしはキリスト教がその主張とは裏腹に、キリスト教が批判する諸宗教のそれよりも、その実態においてかえって怖れを過剰に強調する「怖れに根ざした信仰」になっているように思えてなりません。諸宗教との違いを強調する中で、その試みがかえって意に反して強い怖れを内在化させる結果になってしまっているようにわたしには思えるのです。かつてふとしたやりとりから、わたしはそのような印象を受けるようになりました。
そういった次第で、本サイトの序論的な論考として、「怖れに根ざした信仰」と題して一連の議論をアップすることにしました。当初の予想に反してかなり長大なものとなりましたし、まだ加筆途中ではありますが、この辺でひとまとめとして独立ページとしてまとめることにした次第です。