キリスト教会で伝統的な厳しい怖れに結びついた信仰は果たして正しい信仰なのでしょうか。まずは健全な怖れと不健全な怖れについて考察します。
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神への怖れと信頼(1)
健全な怖れと不健全な怖れ

恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主(すくいぬし)がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(ルカ 2:10-11)

はじめに―神に対する怖れ―

 冒頭に掲げた聖句からも明らかなように、聖書の中には「怖れるな」という表現がたくさん見られる。旧約聖書においては、特にこの言葉は「(戦争において)敵を怖れてはならない」という文脈で語られることが多い補説0-1。また聖書全巻を通しては、逆に「神を怖れよ」という表現も多く見られる。一例をあげればこんな具合である。《体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。》(ルカ 12:4-5)

補説0-1:神の御心にかなった聖書解釈とは

  •  ヨシュア記 1:9などはまさにその好例と言ってよいだろう。それに対して新約聖書では、もちろん時代が違うということもあるが、そのような文脈での「怖れるな」という表現はほとんど見られなくなる。実際はあるのだが、その敵を怖れず、しかも愛せという教えに変わっている。しかも、その場合の敵も旧約聖書と違い、「共同体にとっての敵」ではなく、どちらかと言うと、おのおの一人ひとりにとっての「個人的な敵」を意味するように変化していると言えよう。

     ただし、「敵を愛せ」というイエスの「愛敵」の教えに対して、いつの間にか、「その敵とはあくまで“自分の敵”であって、神(ひいては教会)の敵はそのかぎりではない」とする解釈の逸脱がまず起こった(これを逸脱ではないとする解釈ももちろんありうるだろうが、わたしはそのような解釈を認めることはできない)。そのような逸脱の結果として、特に中世カトリック世界において、さまざまな異端審問や殺戮が次々に正当化されていったことは悲しむべき事実だと言わざるをえない。十字軍はもとより、これはカルヴァンが活躍した当時のジュネーブ市当局における異端者セルヴェトスの火刑などもその例外ではない。カルヴァンもさすがに火炙りには反対したものの、市当局より当初意見を求められた際は異端者の処刑を積極的に主張したという。これに関しては、当時の風潮として仕方のない面があったとする“弁解”が多いものの――もちろんわたしとしてもそれを必ずしも全面的に否定するつもりはないが――それでも、このような風潮がキリストの御心から完全に逸脱したものであることは論を俟たない。少なくとも現代においては、わたしと同様の解釈を取るクリスチャンの方が主流だろう。何となれば、そのような主張をし、実際にも行なったクリスチャンは、どんなに信仰が篤くとも、彼らを「キリストを着た者」あるいは「キリストの霊に満たされた者」とは言えないはずだからである。もしもこのようなわたしの見解が正しいとすれば、――そして、一部のクリスチャンが信じているように、聖書が100パーセント神の言葉であり、その解釈(この際における聖書の解釈はその運用面にも及ぶとここでは理解している)は聖霊の援助がなければ不可能なのだとしたら、――いささか極論かもしれないが、いや極論を承知であえて言えば、カルヴァンやその他の改革者は聖霊の援助なく間違って聖書を解釈し運用していたことになるはずである。ちなみにそれと関連するが、現在ジュネーブ市にはこの行為を反省する碑が建てられているが、当然ながらこれは現代の人間から見て当時の行為が誤っていたと判断されたがゆえのことである。それに現代のクリスチャンの中で、当時の行ないがキリストの御心に沿っていたと考えている人はほとんどいないに違いない。このことが意味することは、キリスト教の教義や聖書の解釈は絶対のものではなく、時代によってそれらも変遷することを意味している。さらにこのことは、神ないしキリストの御心をどう捉えるかの問題に関しても、時代とともにその解釈や判断が正しくもなれば誤ちもする、その意味で聖書解釈自体(信仰自体がすでに広義の解釈なのだが)がそもそもダイナミックなものであること――いや、ダイナミックでなければならないことを示唆しているのである。


1:健全な怖れと不健全な怖れ

 本頁では、まずは心理学的な観点補注1-1から神に対する怖れの問題にアプローチしてみたい。

補注1:


 依存や甘えにも健全なそれと不健全なそれとがあるように〔渡辺登『よい依存、悪い依存』(朝日選書、朝日新聞社、2002年1月)、土居健郎『「甘え」の構造』(弘文堂、1971年)等を参照〕、怖れにも「健全な怖れ」と「不健全な怖れ」とがある。これに関しては、地震学の大家である故・力武常治氏が、かつてあるコラムで大変印象深いことを書いていた。それによると、世に「備えあれば憂いなし」と言われるが、それでは駄目だ、憂い(心配)がなくなってしまってはいざという時に慌てて何もできなくなる。だから、この場合は「憂いあれども備えあり」と言わなければならない、というのである。言われてみればなるほどそのとおりで、たしかに「怖れる」という感情がなければ、人は迫りくる危険から身を守ることができず、かえって危険にさらされる。しかしながら、一方で必要以上に過剰な怖れに囚われることもまたその人をさまざまな面で蝕(むしば)むことになる。これもよく知られた事実である。したがって肝腎なのは、何をどのように怖れるか、ということであると言える。「神を怖れよ」ということもこれと同じで、相手が神だからといって、ただいたずらに怖れおののけばよいというものではない。「神を正しく怖れる」と言うと何か変な感じがするかもしれないが、要は神をどのように怖れるか、あるいは怖れないかが大事なのだ。そして、それこそが神を真実に知るということにもつながるのではないかと思うのである。

 もちろん、たとえばスターリンやヒトラー、あるいは誰でも構わないが、これら独裁者を崇拝することは人間として正しい行為だとは誰も思わないだろう。けれども、一部のクリスチャンの発言を見ていると、わたしにはまるで「この手の独裁者ないし暴君に対するかのように神を崇拝し、怖れ敬い、神に隷属すべきだ」と言ってるかのような印象を受けることがある。これは、わかりやすく言えば、「神だからこそ(独裁者ないし暴君に対するごとく)隷従しなければならない(あるいは、しても構わない)」とする立場だと言えよう。有り体に言ってこれは、「たとえ独裁者に対するように神に隷従しても、その対象が神であればすべて正しい態度なのだ」とする立場でもある補注1-2。もちろんわたしは、相手が神であろうがなかろうが、このような怖れ、あるいは崇拝の念をいだくことは、それこそが神に対する間違った態度、関係の仕方だと思っている――いや、それは神に対する冒瀆ですらあるとわたしは思うのだ。たとえば神を怖れるにしても、先に聖書カルトの問題を論じた時に触れた恐怖症(フォビア)的な感情(態度)で神を怖れることは、やはり誰の目にとっても神に対する正しい関係の取り方だとは言えないであろう。《幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない》(マルコ 10:14-15)と聖書にもあるとおりである。


脚注1(2):

 もっともこの辺の切り分け――すなわち神に対する怖れなり従順(神に対する“服従”という表現はわたしにはどうしても馴染めないので、差し当たりこの表現を用いる)に関して、どのような態度が健全な怖れであり従順であるのか、あるいは不健全な怖れであり従順であるのか、これを見極めることは極めてむずかしい。わたしの文章力のなさもあるが、説明もうまくできない。このことに関しては、わたしは冒頭に引いた「怖れるな、見よ、今日ダビデの町に救い主がお生れになった」というルカ福音書の言葉に着目したいと考えている。要するにここで言われている「怖れるな」とは、怖れおののく羊飼いたちに対して神の御使いが「(自分たちを)怖れるな」と言っているのだということは誰の目にも明らかだろう。そして、これは「神を怖れるな」という意味だとも解釈できると思うのだ。まさにパウロも言うように、《あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。》(ロマ 8:15、ゴチックおよび傍点は引用者)


2:愛と信頼―怖れの反対語は?―

 さて、わたしがここで「神を怖れるな」という場合の「怖れ」は「怯え」補注2-1のそれに近い。その怯えの極端なものを(先に聖書カルトについて触れた時に言及した)フォビアだと考えたらよいだろう。心理学的に言って、人間の心の奥底がこのような「怯え」ないし「怖れ」に蝕(むしば)まれている場合、その人間がいくら神を畏れ敬おうとしたところで、その信仰が健全なものとはならないだろうことは誰の目にも明らかである。ところが先にも述べたように、そのような不健全な怖れによる神への服従(隷従)ばかりを説くクリスチャンがわたしには意外と多いように思えてならないのだ補注2-2

補注2:


 上記で述べた理由から、わたしは先に引用したエーリッヒ・フロムが言うような権威主義的で不健全な信仰を「怖れに根ざした信仰」と(理念形的に)規定したいと考えている。それならば、その反対概念である人道主義的で健全な信仰とは一体どのような信仰であるのだろうか。このことは、ここしばらくの間わたしの頭をいつも離れない問いであった。

 不健全な、あるいは不毛な感情は誰しも少なからず持っているもので、しかも怖れは誰でもいだく感情である。それからの類推もあって、(われわれにとっては)「怖れに根ざした信仰」は比較的理解しやすいように思う。その意味でフロムの分析も、「権威主義的信仰」に関してはその内実をよく描き出していると思う。しかし、これが「人道主義的信仰」(フロムは「権威主義的な態度」の対概念として「人道主義的な態度」を措定している)になると、何となくわかるものの、その説明を読んでの納得度が前者に比べてかなり落ちるように感じるのだ。特に自分の言葉で具体的にこれをまとめようとすると、とても厄介な思いに捕われる。これは、完全に健全な状態の人間はこの世に存在しないのだから、心理学者などがいくら完全な人間の姿を(理念形的に)説明しても、頭ではわかっても完全に腑に落ちるまではゆかないということと同じだと思う――もっともこれは、わたしがそのような状態になく、体験もほとんどないために当然の話かもしれないが。譬えて言えば、一度もリンゴを食べたことのない人にリンゴがどんな味がする果物かいくら説明しても、それはほぼ無駄な努力に終わる。それと同じで、不健全な信仰と違って健全な信仰に対する具体的な想像力がなかなか働かないのだと思う。感覚的には何となくわかるものの、それを具体的に説明しようとすると実感が湧かない感じだと言えばよいだろうか。そういった次第で健全な信仰の実際をここで簡潔に説明することはとりあえず諦めているのだが、このことに関連して普段から考えていることは、それならば怖れの反対概念は何だろうか、ということである。いつも考えているのだが、残念ながらこれといった単語がなかなか思い浮かばない。いろいろと考えた末に、差し当たり「怖れ」の反対は「信頼」としたらどうだろうかと考えるようになった。


 次に論旨から少し外れるが、ここで「怖れ」とその類語について少し辞書的な検討をしておこう。

 「怖れ」を「恐怖」の意味で捉えた場合(この場合は「恐れ」と表記した方がよいだろう)、上にあげた恐怖症的なフォビア(phobia)もあるが、これとは別にテロリズム(terrorism)の語源となったテロル(terror)も恐怖の意味として浮上してくる。怖れ(厳密には恐れ)をこの意味で捉えた場合、怖れの反対概念は「平和」ないし「平安」となる。今の時代に平和は緊急を要する極めて大切な問題だし、いわゆる反対語辞典的に言っても「恐れ」の反対語は「安心」〔仲田武司、巻幡文男監修『反対語辞典』日東書院、1984年7月〕なのだから、あるいはこれでもよいのかもしれない。それは、聖書にも《肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であ》るとあるとおりである〔ロマ 8:6、新共同訳。手許にある聖書で「平和」と訳されているのはこれ以外に共同訳と岩波書店訳、平明訳の聖書で、口語訳と新改訳、フランシスコ会訳ではこの箇所は「平安」となっている〕
 その一方で、実はこれを思いきって「愛」と捉えたらどうかとも考えたのだが、かなり正鵠を得ているとは思うものの、愛という言葉はだいぶ手垢がついてしまっているので、できれば避けたいと考えている。欧米人が言うところの愛(Love)ということが日本人にはなかなか理解しにくいと言われるが、これがキリスト教的な意味合いでの愛となるとなおさらだからである。しかし、マザー・テレサによれば愛の反対は憎しみではなく「無関心」だと言うし、かつてカトリックの宣教師が戦国時代の日本を訪れた際には愛を「御大切」と訳したともいう。また聖書を引くが、《このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である》(一コリント 13:13)。そして、その《愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである》(一ヨハネ 4:18)。ちなみに後者に関するフランシスコ会訳の脚注には、《利他的な愛は報いとしてもどり、利己的な恐れは罰としてとどまる。愛と恐れは相いれないものである》とある〔新約合本版。凡例でも簡単に触れたとおり、フランシスコ会訳による新約聖書の引用等は最新の旧・新約合本版ではなく、1984年改訂の新約合本版を今後も使用する〕。また、共同訳では《完全な愛は恐れをとり除く》の箇所が《完全な愛は恐れを閉め出します》となっているが、あるいはこの方が表現としては適切かもしれない。そういった次第で「愛」という言葉の方が「怖れ」の反対概念としては案外適切なのかもしれないが、わたし自身が愛を実践できているわけでもなく、「信頼」ならばともかく、この「愛」という言葉はこの文脈では使いづらいと判断した次第である


※最後に、本サイトにおいてわたしは「恐れ」ではなく「怖れ」の表記を用いているわけだが、これは「恐怖」と「不安」の中間くらいの感情、ひいては「怯え」とも連なる恐れの感覚を表わすためにあえて使用しているものである。今後、実存主義者やカレン・ホーナイその他の深層心理学者の定義する「不安」の概念についてもう少し詳しく検討した上で、本頁の内容についても考え直し、場合によっては加筆および訂正をしたいと考えている。

2012年9月18日アップ、2013年7月4日 ドメイン変更に伴い改訂、2016年9月13日 改訂/管理人:ヘレム=キラー メール
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