キリスト教においては、信仰とは「怖れからの解放」としての福音を信じることだと言われる。《真理は汝らに自由を得さすべし》(ヨハネ 8:32)と聖書にもあるように、それは「解放」の音ずれである。また、ギリシア語で「罪」を意味するハマルティアという語の原義は「的を外す」という意味だとされる。福音とはだから、人間が神との正しい関係から「的はずれ」となって罪の奴隷となった状態からの解放の喜ばしい「知らせ」(Good News)なのだ。出エジプトに象徴的に表われているように、それは、現代風に言えば「人間疎外」という名の奴隷状態からの人間解放の「福音(よきしらせ)」でもあると言えよう。
わたしは、キリスト教に限らず、ほんものの宗教(「ほんものの宗教」とか「正しい宗教」といった表現は多少問題があると思うし、何をもってほんものであるとか正しいとするかについてはそれぞれの見解もあるだろうが、今はあえてこのまま使う)は皆すべからく福音であると信じている。しかしながら、人間を真の意味で解放せず、かえって奴隷化するだけの「宗教」があまりにも多いこともこの世の現実である。そのような「偽造宗教」〔谷口隆之助『聖書の人生論――いのちの存在感覚――』川島書店、1979年5月、p.192.〕の中でも、特に「破壊的なカルト(destructive cult)」による「信仰による人間疎外」〔注1-0-1〕の問題はこれをなおざりにすることはできない。それらの団体の行なうマインド・コントロールの中でも極めて悪質なものが、信者に対する恐怖心の植えつけである。それは恐怖症(フォビア、phobia)と言ってよいほどのものであるという〔浅見定雄『なぜカルト宗教は生まれるのか』日本基督教団出版局、1997年3月、p.222参照〕。さらにこのような信者に対する恐怖心の植えつけは、今やカルト宗教や一部の新興宗教の専売特許ではない。「聖書カルト」と呼ばれるキリスト教会において、そのような信者への「支配」が日常的に行なわれているという。しかも保守的なプロテスタント教会を中心に、近年そのような聖書カルトが多数生まれてきているというのである。その証拠に、キリスト教の出版社であるいのちのことば社でも、ここ10数年くらいの間に聖書カルトに関する一連のブックレットを出版して教会員に警告を発している〔注1-0-2〕。もちろんこのような啓発を一般信徒に向けて行なうこと自体は大変意義のあることだが、しかしながら、こればかりは手放しでは喜べない。そもそも伝統的で保守的な信仰を守る福音派の出版社であるいのちのことば社で、小冊子ながらこのような書籍が何冊も発行されざるを得なかったということは、やはり由々しき事態だと言わざるをえないだろう。
カルトという言葉を聞いて、人は一体どんな集団を思い浮かべるだろうか?
わたしがカルト問題に興味を持つようになってからずいぶんたつが、時をおかずしてこの言葉が一人歩きを始めてしまった感がある。要は、自分の気にいらない団体をカルト呼ばわりする風潮がはびこっている印象が見られるのである。カルトに限らず、たとえばニヒリズムにせよテロリズムにせよ、あるいは全体主義やイデオロギーもそうだが、いわゆる「レッテル語」と呼ばれるものがある。これらのレッテル語は辞書的な定義が非常に難しいのだが、最近はカルトもそのうちのひとつである。定義と言うか、これらの用語の使用に逸脱が見られるのもそれが要因となっているようだ。ただカルトの場合、その逸脱的な使用が起こったのは比較的最近であるため、本来の意味がまだ失われてはいない。そのため、「(破壊的な)カルト」と言った場合も、幸い他のレッテル語に比べてその定義がまだ比較的容易であるように思う。それでも、カルトという用語に逸脱と言うか誤解が多いので、多少個人的な見解も交えながら、カルトという言葉の正確な意味について、ここでなるべく詳しく説明をしておくことにする(ただし、本頁はカルトについて本格的な考察を行なう場ではないため、以下のカルトに関する説明は前掲の浅見氏の著書『なぜカルト宗教はうまれるのか』の説明におおむね準拠したことをお断わりしておく)。
まずはカルト(cult)という言葉が本来持っていた意味から説明を始めよう。
辞書的な説明ながら、本来カルトとは、ラテン語で(古代ローマ以来の)宗教の具体的な「営み」(神々の崇拝や礼拝などの儀礼)を意味していた。また、本来「耕す」という意味も持つculture(カルチャー)はcultと語根を同じくする語でもある。そのため、これは西欧の文献に多い印象があるが、「祭祀」の意味でcultの語を用いる研究者は最近でも多く見られる(もっとも、すでにこの定義自体が必ずしも価値中立的ではなく、既成宗教、特にキリスト教から見て古代の宗教や新興宗教は低次元の、ないし未発達な宗教=信仰形態であるとする価値判断が含まれているものと思われる。かつてよく見られた「未開宗教」と「高等宗教」とを区別する視点もまた無自覚ながら従来のカルトの定義に反映していると見ることができるかもしれない)。したがって本来カルトとは、簡単に言えば、伝統的な成立宗教から見て《比較的新しく、少し奇異な感じを与える、小さな、宗教集団》〔浅見定雄『なぜカルト宗教はうまれるのか』、p.20.〕のことであると言える。浅見はこれを「新・奇・小」と呼んでいるが、わたしはこれに「熱狂的」(場合によっては「狂信的」)という語を加えてもよいのではないかと考えている。カルト・ムービーやカルト・ミュージックといった言葉が今も現実に生きていることからもそれはわかるだろう〔補注1-1-1〕。
以上は宗教学および社会学上の従来のカルトの定義だが、このように従来はカルトという言葉には特に悪質な意味はなかったものが、時代が下るにつれて、次第にカルトと言えば「悪質なマインド・コントロールを行なって、その構成員を支配し隷従せしめる団体」の意味として用いられるようになった。たとえばカルトからの救出カウンセラーの先駆けであるスティーヴン・ハッサンが『マインド・コントロールの恐怖』〔原著の出版は1988年、翻訳は1993年〕を著わした頃はまだ「破壊的な(destructive)」という形容詞を添えてカルト問題が論じられていたものが、いつの間にか(少なくともこの本が日本で出版された直後ぐらいから)単にカルトと言っただけで、上記のような「社会やその団体の構成員に対して破壊的な影響を与える特異な団体」の意味で使われるようになった(ただし浅見氏によれば、ロス・ランゴーニの『カルト教団からわが子を守る法』〔ASAHI NEWS SHOP、朝日新聞社、1995年6月〕や、上記『マインド・コントロールの恐怖』に「推薦のことば」を寄せているマーガレット・シンガーの『カルト』〔飛鳥新社、1995年10月〕などにおいては、原著でもすでにカルトだけで悪い意味として使われているという)。
次に、マインド・コントロール(mind control)という語について簡単に説明しよう。
破壊的なカルトには必ずと言ってよいほど悪質なマインド・コントロールが伴うものだが、そのマインド・コントロールにしても、従来はカルトと同じく特に悪質な意味はなく、その「悪用」の問題として論じられていた。それがカルトの意味が変化するのとほぼ時期を同じくして、マインド・コントロールも、相手にそれと気づかせずに他者を操る非倫理的な心理学的な技法の総称――より専門的に言えば《個人の人格(信念、行動、思考、感情)を破壊しそれを新しい人格と置き換えてしまうような影響力の体系(システム)》〔スティーヴン・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』、浅見定雄訳、恒友出版、1993年4月、p.27〕――として、現在見るような極めて悪質な操作技法として使われるようになってきた(わたしの記憶では、日本においても遅くとも1980年代末ごろまではマインド・コントロールはよい意味として語られることも多かったようだ。それが1993年の統一協会の合同結婚式報道あたりを皮切りに、この言葉はその意味を変質させるようになった。たとえばその証拠に、イメージ操作を伴う願望実現メソッドとして有名なシルバ・マインド・コントロールなども、世間の誤解を避けるためであろう、たしか1990年代中頃にはシルバ・メソッドと名称を変更していた)。そこで本論においても、特に断わりがない場合は、この意味合いで「カルト」を使うことにする。
それでは、以上のような破壊的なカルトにはどのような団体が存在するのだろうか?
破壊的なカルトは宗教団体に限らず、経済カルト(マルチ商法など)や心理療法カルト(自己啓発セミナーなど)その他あらゆる形態があるが(他に日本ではあまり見られない形態として政治カルトがあるが、これはいわゆる政治結社で、現代ではある種のテロリスト団体もこれに含めることができる)、その中でも一段と悪質で特徴的なものが「宗教カルト」である。ただし上でも説明したように、カルトとは元来、「熱狂的(あるいは狂信的)で特異な比較的小規模な宗教集団」に対して使われていた宗教学および社会学上の用語だが、上記のような様々な派生的なカルト集団が現われてきている実情から、現在においては本来の宗教カルトをわざわざ「カルト宗教」と呼ぶ必要も出てきているという〔浅見『なぜカルト宗教はうまれるのか』、p.147参照〕。
上記の説明でカルトという言葉の意味については大体理解していただけたと思う。ところが、多少同語反復的な「宗教カルト」という用語以外に、上でも触れたように、最近では「聖書カルト」(カルト化する教会)なる用語を心あるキリスト教サイトその他でも見かけるようになった。10数年ほど前にこの言葉に最初に接した時はわたしもいくらか驚きを禁じ得なかったことを覚えている。
それでは、「聖書カルト」とは一体どのようなカルト団体なのか? ここで、上記注釈でも触れたいのちのことば社のブックレットを参考に、「聖書カルト」とは一体どのような教会なのか、わたしなりに説明をしておくことにする。
聖書カルトとは、統一協会(元々の正式名称は世界基督教統一神霊協会、最近になって世界平和統一家庭連合に改称)はもちろん、エホバの証人(エホバの証人は信者を表わす通称で、正式な組織名はものみの塔聖書冊子協会)やモルモン教(正式名称は末日聖徒イエス・キリスト教会)のような、聖書に加えて独自の聖典や啓示を持つ異端的な「キリスト教系新宗教」(これを一般に「三大異端」と呼ぶ。かつては三位一体の教義を否定したユニテリアン教会が異端としてつとに知られていたが、こちらは社会問題等は特に起こさない、あくまでも教義上での異端である)ではなく、あくまでマルティン・ルター以来の「聖書のみ」の原則を守り、「聖書信仰」の立場で、しかもその聖書の御言葉によって教会員を支配(マインド・コントロール)する教会を言う。マインド・コントロールの実際に関しては、前出の『マインド・コントロールの恐怖』その他に詳しく書かれてあるのでそちらをご覧いただきたいが、恐怖心の植えつけに関して特にここで説明しておこう。その具体例としては、たとえばその教団から抜けようとすると、その途端にそれまでの友好的な態度を変えてメンバーを責め裁き、「離れたら地獄に堕ちる」「不幸に襲われる」等々の“脅し”を信者に対して行なう教団が多い。聖書カルトと称される教会でも、牧師が同じような脅しを信者に対して行なっているというのだ〔パスカル・ズィヴィー、福沢満、志村真『「信仰」という名の虐待』、いのちのことば社、21世紀ブックレット17、2002年5月、p.23〜24参照〕。また、聖書カルトは単立の教会に多いそうだが、それら聖書カルトの大半が「律法主義的」(わたしは律法主義的であること自体がすでに福音的ではないと考えている)で、さまざまな恣意的な規範を作っては、それをもって牧師が自分の思うままに教会員を支配(コントロール)している状況が多く見られるという。聖書カルトにおいても、牧師による信者の支配のために破壊的なカルトと全く同様なマインド・コントロールの手法が使われているのである(カルト化した教会の実際については上記いのちのことば社のブックレットを見ていただきたいが、それに加えてカルト問題一般を扱った他の関連書を見れば、カルト宗教でも聖書カルトでもその実態は本質的に同じであることがよくわかるだろう)。
ところで、先にわたしは聖書カルトについて書かれた参考文献の注記〔前記 注1-0-2参照〕の中で聖書カルトが福音派の教会を中心にはびこりつつあるかのようなことを書いたが、これは必ずしも根拠のない感想ではない。そのことについて、ここで少し補足的な説明をしておきたい。
多少くりかえしになるが、上記の参考文献によれば、カルト化した教会では聖書の御言葉を教会員支配の道具に使っており、また、それらの教会の多くが律法主義的で、さまざまな規範(実践行動)を信者に強いて教会員を支配していること、それらの教会の多くは特定教派に属さない単立の教会が多いことが指摘されている。意外に思う人がいるかもしれないが、ここで肝要なのは、その際にその支配の前提ないし根拠となるのが実は「聖書の御言葉」であるということだ。しかも福音派や福音派に近い立場の教会〔補注1-2-1〕の場合、「聖書は100パーセント間違いのない神の言葉である」と捉える立場からする当然の帰結として、聖書の御言葉およびその解釈は絶対的な権威をもって信者に迫ってくることになる。もちろんその聖書の言葉の意味について信者自らが自分の頭で考えることは、カルト的な教会の中では――その教会ないし牧師による解釈を逸脱するような形では――当然ながら許されない。批判的な視点で聖書に接するなど以ての外、そのような行為は「不信仰」として大概は否定される。完全な書物たる聖書に批判的な姿勢で接することは敬虔ならざる態度として斥けられなければならない。それは信者としては許されざる行為なのだ。何となれば、それは神に異論を差し挟むことにもつながるからである。このように聖書カルトにおいて聖書の御言葉の解き明かしができるのはひとり牧師だけなのだが、もちろんその実態は、聖書ないし神の権威を背景に牧師が信者を支配(コントロール)しているにすぎない。聖書カルトにおいては牧師が権威なので、どれほど聖書根本主義の立場を表明しようとも、実際には聖書が権威でも神が権威でもないのである。これは被造物神化すなわち牧師自身が神になることを意味するが(このとき聖書の権威を背景にその教会内で牧師が神ないし唯一の預言者となる!)、それもこれも聖書の御言葉の絶対視がその権威と根拠を牧師に与えているがゆえのことである。くりかえすが、このような逸脱が起こるのも、皮肉なことにそれは「聖書の絶対的な権威」があったればこそなのである。聖書根本主義の教会だからこそ、信者をコントロールするための道具として聖書の御言葉をこのように効果的に使うことも可能となるわけで、ここに「聖書信仰」が孕む問題点があるのだとわたしは捉えているのである。
もっとも、これがたとえばリベラルな立場の教会であれば、教会員自らが自分の頭で、時には批判的に聖書を読み、牧師の説教を聞いてしまうため、牧師一人による信者の支配は比較的むずかしいと言えよう。大体通常の教会であれば、牧師の行動があまりにもおかしいと思えば、場合によってはその教会の役員か誰かが教派の上層部にその牧師の行動を訴え出ることもあるだろう(実際そういった話は知人などから時々聞くことがある)。それに対して聖書カルトにおいては、牧師は誰からも批判されてはならない存在である。何となれば、彼は神によって権威を授けられた特別な存在だからである。ここにおいて、彼は聖書および神の御言葉の解き明かしをひとり独占するのである。さらに、ある教会が何らかの理由で“問題化”した時に、教派の上層部からの批判などに対して、問題の牧師がリバイバルと称して教会を独立させるということもあるだろう。その単立教会が教線拡大で教派を形成すれば、ここに新たなカルト教団が生まれることになるわけで、その辺は一般のカルト宗教と何ら変わらない。もしも違いがあるとすれば、他のカルト宗教と違って、聖書カルトには伝統的な聖書信仰ないしキリスト教という「後ろ盾」があるということだろうか(もっとも一般のカルト宗教の場合も仏典その他を権威づけに使うのだが、キリスト教会における聖書ほどの絶対的な権威をそれらの聖典類が現代においても持っているかどうかとなると、それは疑問と言わざるをえないのではないかと思う。それほどに、クリスチャンにとって「正典=聖典」としての聖書の持つ権威は絶大なのである)。かくして、単立のカルト教会でも一般のキリスト教会を隠れ蓑として破壊的な活動が可能となるわけである。しかも、単立であればあるほどカルト性(破壊性・問題性)が外から見えづらくなるため、一般世間の批判ばかりでなく、クリスチャンによる批判・検証も受けにくくなるという次第である。以上が、特に福音派など聖書根本主義に立脚する教会で聖書カルトがはびこりつつある要因であり、聖書カルトが単立の教会で多いとされる理由でもあると言えよう。
以上長々と論じてきた聖書カルトの問題はたしかに大変重要な論点ではあるが、今この問題についてこれ以上具体的に論じることはできないし、その用意もない。もちろんわたしは、本サイトで必ずしも聖書カルトを問題にしたいわけではないし、聖書信仰に関しても、ただそれだけでこれを否定したいわけでもない。ただ、その聖書信仰が時に「信仰による人間疎外」や、場合によっては「信仰による虐待(spiritual abuse)」をすら生むことがあることを指摘しているだけである。わたしがここで言いたいことは、同じ聖書を信仰し、必ずしも異端視されているわけではない伝統的なキリスト教会の中にも、現実としてこのようなカルトまがいの「宗教偽造」の類が蔓延しつつあるということである。すなわち、聖書を信じ、同じキリストを信じながら、その同じ聖書やキリストの名によって人間を「奴隷化」する間違った信仰が現実に行なわれているということをここでわたしは強調したいのである。クリスチャンではないが、宗教を信じる者として、このような問題をないがしろにすることはわたしにはできない。
それゆえにクリスチャンは、「キリスト教ならばすべて正しい」という先入観は(これは自らが属す教団や教派についても同様である)今や捨てなければならないと思う。「キリスト教」を「聖書信仰」と言いかえても事態は何ら変わらない。《わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。》(マタイ 7:21)と聖書にもあるように、ただ単にキリスト教会に所属し、イエスをキリストであると信仰告白するだけでなく、また教派・教条の違いに関わりなく、クリスチャンとして正しい信仰を持つ、すなわち神に対して正しく関わるということが肝腎なのである〔補注2-1-1〕。《たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい》(一コリント 13:2)とパウロが言うとおりである。要するにこれは、その教会の牧師や信者が「自分たちは聖書を誰よりも正しく信じている(あるいは理解し解釈している)」といかに声高に主張しようとも、ただそれだけでは正しい信仰を生きているとは必ずしも言えないということである。
なお、いささか余計なことかもしれないが、ここで言わせてもらえば、多くのクリスチャンが信じているような意味では、キリスト教以外の宗教が必ずしも間違っているとは言えない、キリスト教でも他の宗教同様に道を踏み外しうる、ということである。一部のクリスチャンには認めがたい見解かもしれないが、それは、キリスト教以外の宗教にも正しい信仰があるし、キリスト教でも間違った信仰がある、ということである。社会心理学者のエーリッヒ・フロムが《権威主義的宗教と人道主義的宗教との区別は、さまざまな諸宗教を区別するばかりではない。同一の宗教のうちにもその区別はなされうるのである》〔『精神分析と宗教』谷口隆之助、早坂泰次郎共訳、東京創元社、現代社会科学叢書、1953年、1971年改訂版、p.54〕とその著書の中で書いているが、このフロムの言う「権威主義的宗教」「人道主義的宗教」を「間違った信仰」「正しい信仰」などと言いかえればこのことは誰の目にも明らかだろう。
前節の冒頭でも述べたように、聖書カルトの問題は一般のクリスチャンにとっても決してなおざりにすることのできない問題であろう。もっとも、中には「このサイトでの聖書カルト批判は通常のキリスト教会とは関係ない事柄で、自分たちには関係ない話題だ」と思う人がいるかもしれない。しかしながら聖書カルトの問題は、わたし以上に、クリスチャンにとっては同胞の問題、自分が「当事者」となった信仰の仲間(きようだい)の問題であろう。教派なり教会は違っても、カルト教会に集う信者も同じキリストの教会に属する仲間(信仰の群れ)であって、少なくとも部外者ではないはずだ〔補説2-1-1〕。何にせよこの事態は、聖書カルトの出現においてクリスチャンとしての「責任(responsibility)」がいま問われているのだと理解することができるだろう。あるいは聖書カルトの出現によって、クリスチャンは「キリスト教ならばすべて正しい」という昔ながらの単純な信仰を保持することが許されない時代になったのだと理解することもできるかもしれない。それは、クリスチャンが今その信仰の真価、ひいては自分の信仰が真に正しい信仰であるかどうかが神の前に――それは同時に「社会の中において」でもあることをわれわれは決してわすれてはならないであろう――問われているということでもある。その意味で聖書カルトの出現は神による信仰の試練(こころみ)なのだと、このように捉えることもできるだろう。わたしはそのように考えている。
これは本来、相手が非キリスト教徒であっても関係ない、すなわち同胞の問題だと捉えるべきだとわたしは考えているが、ここではそこまでは言わないでおく。ただ何事にせよ、同胞であるクリスチャンが苦しんでいる事柄を「それは自分の教会には関係ないことだ」としてこれを無視することは(そういう人はたくさんいると思うが)、クリスチャンとして当事者意識あるいは責任感が欠けていると非難されても仕方がないとわたしは思うのだ。この問題にどう対処するか――もちろんそれは、とりあえずは心を痛めるだけでも構わないとは思うが、その“傷み”は必ずや真摯な祈りを生むであろうし、その時点ですでにそれは自分とは無関係な事柄ではなくなっているはずである。マタイ伝第25章のキリストによる裁きの箇所(マタイ
25:31-46)を見ればわかるように、苦しんでいる同胞(件の聖句によればその対象はクリスチャンに限定されないと解釈できる)を無視して顧みないことは裁きの対象となる「罪」とされる。なお、参考ながらここで付言すれば、たとえばイエスのパリサイ人批判にしても、あるいは滅びないし裁きの預言にしても、聖書を読む時はこれを自分たちとは関係のない事柄だとは思わず、自分たちクリスチャンに対する直接的な批判であり警告であると自分たちに引き寄せて読むべきであるとわたしは考えている
ちなみに口語訳版の新約聖書略解によれば、この箇所に関して《終末の日には隣人に対する愛のわざによってさばかれる》〔口語訳版『増訂新版 新約聖書略解』日本基督教団出版局、1955年7月初版、1989年8月増訂新版34版、p.95下段〕とある。それに対して、新共同訳版の略解ではこの箇所の解釈がだいぶ変わっている。それによると、《わたしの兄弟であるこの最も小さい者》(マタイ 25:40、45)とは、自分の目の前で具体的に飢え渇き、病み、着るものすらない貧者、あるいは獄につながれている者ではなく、キリストの福音を述べ伝える者によくしてくれた者の“象徴”であるとされているのだ〔『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2000年3月、p.101下段〜p.102上段〕。《裁きの規準は、彼らが伝道者の宣教をどう受け取ったかであり、さらに宣教に携わる者をどのように遇したかが問われる》〔同、p.101下段〕。すなわち、口語訳略解では少なくとも奉仕の対象が「小さくされた具体的な弱者」であったのに対して、新共同訳版の略解ではこれがキリストの福音を伝道する人間にすり替わっていると言える。最近の聖書学の研究によって福音書記者マタイがそのような意図でこの箇所を編集したことがわかったのかもしれないが、たとえそうだとしても、それでもわたしはこのような解釈をとることにかなり抵抗を覚える(これでは、クリスチャン――よくてクリスチャンに献身的に奉仕したノン・クリスチャン――以外は地獄落ちだと言っているようなものだ。わたしはそれはイエスの真意ではないと思うが、もしもそれがイエスの真意だったとしたら、わたしはそのようなイエスは否定する――いや、わたしにとってそのようなイエス否定は実はイエス肯定なのである)。もちろんわたしは、そのような解釈を必ずしも否定するものではない。そのような権威も学識もない。また、そのような解釈をする宗教信仰も「宗教学上の定義における宗教の一形態」としては認めたいとは思っている。けれども、たとえそれが新約聖書学者の研究によって割り出された福音書記者マタイの真意だったとしても――あるいはそれがキリスト教による正統的な解釈として示されたのだとしても――それが本当にイエスの真意だったのか疑問に思わざるをえないのである。たとえ新共同訳略解の解釈が正しく、それが福音書記者マタイの真意だったのだとしても、そのような解釈を乗り越える、あるいは訂正することがわたしたちには許されているのだとわたしは固く信じている。いずれにせよ、イエスが目を注いだ、すなわち共苦(コンパツシヨン)したのは“具体的な弱者”だったのか、それともクリスチャンの“象徴としての弱者”だったのか。あるいはイエスの「真意」――何をもってイエスの真意とするかは人によってさまざまだろうが――を採るのか、それとも福音書記者の「解釈」あるいは「理解」(その解釈ないし理解でもって、聖書を書いた福音書記者その人はそれをイエスの真意だと信じたのだろう。しかしながら、それを福音書記者の解釈なり理解だとするその見解そのものがすでに聖書学者によってさまざまに理解され読み込まれた「解釈」のひとつ――いや、信仰そのものが広い意味ですでにひとつの解釈なのである)を採るのか。クリスチャンに限らず、「万人に共通の宗教的古典」(谷口隆之助)として聖書をひもとく者は、そのどちらの解釈を採るか、そのことをいつも問われているのだと思う。
ちなみに口語訳版の新約聖書略解によれば、この箇所に関して《終末の日には隣人に対する愛のわざによってさばかれる》〔口語訳版『増訂新版 新約聖書略解』日本基督教団出版局、1955年7月初版、1989年8月増訂新版34版、p.95下段〕とある。それに対して、新共同訳版の略解ではこの箇所の解釈がだいぶ変わっている。それによると、《わたしの兄弟であるこの最も小さい者》(マタイ 25:40、45)とは、自分の目の前で具体的に飢え渇き、病み、着るものすらない貧者、あるいは獄につながれている者ではなく、キリストの福音を述べ伝える者によくしてくれた者の“象徴”とされている〔『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2000年3月、p.101下段〜p.102上段〕。《裁きの規準は、彼らが伝道者の宣教をどう受け取ったかであり、さらに宣教に携わる者をどのように遇したかが問われる》〔同、p.101下段〕。すなわち、口語訳略解では少なくとも奉仕の対象が「小さくされた具体的な弱者」であったのに対して、新共同訳版の略解ではこれがキリストの福音を伝道する人間にすり替わっている。最近の聖書学の研究によって福音書記者マタイがそのような意図でこの箇所を編集したことがわかったのだとしても、それでもわたしはこのような解釈をとることにかなり抵抗を覚える(これでは、クリスチャン――よくてクリスチャンに献身的に奉仕したノン・クリスチャン――以外は地獄落ちだと言っているようなものだ。それはイエスの真意ではないと思うが、もしもそれがイエスの真意だったとしたら、わたしはそのようなイエスは否定する――いや、わたしにとってそのようなイエス否定は実はイエス肯定なのだ)。もちろんわたしは、そのような解釈を必ずしも否定するものではない。そのような権威も学識もない。また、そのような解釈をする宗教信仰も「宗教学上の定義における宗教の一形態」としては認めたいと思っている。けれども、たとえそれが福音書記者マタイの真意だったとしても――あるいはそれがキリスト教による正統的な解釈だとして示されたのだたとしても――それが本当にイエスの真意だったのか疑問に思わざるをえないのである。たとえ新共同訳略解の解釈が正しく、それが福音書記者マタイの真意だったのだとしても、そのような解釈を乗り越える、あるいは訂正することがわたしたちには許されているのだとわたしは固く信じている。いずれにせよ、イエスが目を注いだ、すなわち共苦(コンパツシヨン)したのは“具体的な弱者”だったのか、それともクリスチャンの“象徴としての弱者”だったのか。あるいはイエスの「真意」――何をもってイエスの真意とするかは人によってさまざまであろうが――を採るのか、それとも福音書記者の「解釈」ないし「理解」(その解釈でもって聖書を書いた福音書記者その人はそれをイエスの真意だと信じたのだろう。しかしながら、それを福音書記者の解釈だとするその見解そのものがすでに聖書学者によってさまざまに解釈された解釈のひとつ――いや、信仰そのものが広い意味ですでにひとつの解釈なのである)を採るのか。クリスチャンに限らず、万人に共通の宗教的古典として聖書をひもとく者は、そのどちらの解釈を採るか、わたしたちはいつも問われているのだと思う。→
ここでついでながら、「責任」という語について若干の説明を加えておきたい。
責任は英語で言えばresponsibilityであって、これはresponseとabilityとに分解される。責任はたしかに「法律的」「道徳的」などさまざまな意味を有する語だが、英語の語源に従えば、それは「応答可能性」、(相手に)応答する能力の有無を問うといった意味の語である。わたしもなるべくこの意味でこの言葉を使いたいと考えている。ちなみにエーリッヒ・フロムは、責任について、《今日では責任は、しばしば義務、すなわち外側から課せられたなにものかを意味している。しかし、その真の意味においては責任はまったく自発的な行為なのである。<責任に応える>とは<応答する>ことができ、<応答する>用意ができていることを意味する。ヨナはニネベの住民に責任を感じなかった。彼はカインのように、「私は弟の保護者なのですか」と聞くことができた。愛する人ならば答えるであろう。その兄弟の生活は、単に兄弟だけの問題なのではなく、彼みずからの問題である、と。彼は自分に責任を感ずると同じように、自分の仲間に対しても責任を感ずるのである。》〔『愛するということ』懸田克躬訳(旧訳)、紀伊國屋社書店、1959年1月、p.37. 引用文中の二重山括弧を山括弧に変更〕と述べている。「われわれにとっての責任とは何か」を考える上で、これは大変示唆に富む説明だと思う。
少し脱線したようだ。話を戻そう。
多くのキリスト教入門書を読むと、「聖書は神の霊感によって書かれた」と説明されている。そのことに関しては特に批判も何もないし、わたしも事実そのとおりだと思っている(もっともわたし自身は仏典その他の「宗教的古典」も神ないし仏による霊感によって書かれたものだと信じている)。また、一般にキリスト教会では「聖書は聖霊の導きによって初めて理解することができる」と信じられているという。しかし、クリスチャンならば聖書を読んで直ちに聖書の御言葉を完全に理解できるかとなると、それはやはり疑問と言わざるをえない。たしかに聖書は神の霊感によって書かれた書物には違いないであろう。それを読む時も神の霊感によらなければ聖書を完全には理解できないということもまた事実かもしれない。そのことを認めることにわたしも決してやぶさかではないが、しかしながら、すべてのクリスチャンにそれが可能だとはわたしには到底思えない。洗礼を受けたならば、それだけですべてのクリスチャンが聖霊の働きによってその日から突然に聖書が理解できるようになるわけでもあるまい。それは歴史やキリスト教会の現実が証明しているとおりで、聖書の言葉を完全に理解し実践することは、神の前に不完全な人間にはやはり至難の業と言うべきなのである。大体において、もしもクリスチャンであるだけで聖書解釈ができると言うのであれば、いくら巧妙なマインド・コントロールの手法を使うからといって、洗礼を受けたクリスチャンがカルト教会の牧師にそうやすやすと騙されるわけがないではないか。そのように考えれば、洗礼を受けたクリスチャンによる聖書解釈がいつも正しいとは限らないことは誰の目にも明らかであると言えよう。
それでも、このような見解に対してはさまざまな反論があるだろうが、今これを詳論する余裕はない。もちろんこれに対しては、「それは真実のキリスト教会ではない」とか「その洗礼は有効ではない」、あるいは「それは真実に聖霊の導きではない、したがって正しい聖書の解き明かしではない」といった反論が予想される。それは、かつて共産主義国家がその信奉者たちによって「あれは真実の共産主義国家ではない」「あれは共産主義の失敗例だ」とさんざん“弁護”されたのとまったく同じような“弁明”だと言ってよい。何となれば、それを言うなら、「どれが正しい共産主義なのか」という問いと同様、「どれが正しいキリスト教理解・解釈なのか」「その判断を誰が下すのか」といった問題が直ちに生まれて来ざるをえないからである。もちろん「自分たちの教会の判断が一番正しい」ということになるのだろうが、それならば今度は、「その判断は誰が下したのか」と問われなければならない。人間すなわちその教会員の誰かがその判断を下したというのであれば論外だ。何となればその場合、カルト教会の牧師と同様、その判断を下した人間〔補注2-2-1〕は神と同様に間違いのない判断をすることを自らに許していることになるからである。
もっとも、それを言い出したら聖書の解釈そのものが不可能になってしまう。そこで、簡単ながらここでこの問題に関してひと言コメントしておけば、その聖書解釈が人間をより人間的にするものならば、それは聖霊の導きによる正しい解釈である――それに対して、それとは逆の「信仰による人間疎外」を(相対的により多く)もたらすような解釈は、たとえそれがいくら神の栄光を輝かせるもののように見えたとしても(これもいずれ詳しく論じたいテーマだが、実はわたしは「神の栄光を輝かせるため」にという多くのクリスチャンが表明する主張にも大きな疑念をいだいている)、それは聖霊による導きではないと判断したらよいのではないかとわたしは考えている。(誤解のないよう申し添えておくが、わたしは聖霊の手助けによる聖書の解釈はノン・クリスチャンにも開かれていると信じている。ただしこれは、本サイトにおいて「わたしが聖霊の導きにより聖書を正しく解釈してみせる」などと間違っても言いたいわけではない。そうではなくて、聖霊の導きによって正しく解釈されたはずの従来の聖書解釈が神の目から見て真に正しい聖書解釈であったかどうか、非力を顧みず吟味したいと考えているのである。)
《神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。》(二コリント 3:6)とパウロは書いているが、神の霊感によって書かれた聖書といえども、それだけではただの「文字」でしかない。「文字は殺し、霊は生かす」のならば、時と場合によっては、すなわち表面の「文字」にのみ囚われた場合、聖書ですら人を殺すものとなりかねない。そういうことをこのパウロの言葉は意味していると言えよう。それだから、霊である聖書の文章も、単に霊を映したにすぎない文字であるかぎり、それが人を殺すものと化す可能性をわれわれは否定することができないのである。それだから、聖書の文言に囚われることもまたある意味で一種の「偶像崇拝」に他ならない。そして、このような信仰態度すなわち聖書の偶像化が、聖書を使うカルトを生み出す原因のひとつでもあると言っても決して過言ではないのではないだろうか。わたしはそのように考えているのである。
先にわたしは聖書カルトの例をあげて、信者を支配(コントロール)するための道具として聖書の御言葉がいかに効果的であるかを指摘した。聖書の御言葉の絶対視による聖書の権威、ひいては「聖書の偶像化」は、実にこれほどの問題点を孕んでいるのである。そして、ここにこそ「聖書信仰」の孕む最大の問題点があるのだとわたしは考えている。
冒頭で述べたように、福音とは、そしてキリスト教信仰とは、怖れからの解放とその福音に対する信仰でなければならないはずである。それにも拘らず、(たとえ一部の教会とは言え)聖書カルトに見るように、それが上に書いたように完全に逆転してしまっているのは「聖書信仰」の一体どこに問題があるのだろうか? 《樹(き)は果(み)によりて知らるる》(マタイ 12:33、他にマタイ 7:15-20、ルカ 6:43-45)と聖書にもあるが、それならば聖書カルトを生み出すような「聖書信仰」は一体どのような《木》によって生み出されたのだろうか?
以上述べてきたような問題があるからこそ聖書に対する批判的かつ対話的なアプローチが必要とされるのであって、聖書を《聖》書たらしめるためにも、われわれは聖書批判を避けて通ることはできないのである。(もちろんここで言う「聖書批判」はより厳密には「聖書“解釈”批判」「聖書“崇拝”批判」でもあるのだが、煩雑を避けるために、今後もあえて「聖書批判」ないしは「聖書“信仰”批判」の語を使う場合があることをお断わりしておく。)