本論のテーマから外れた議論がいくらか続いたが、そろそろ本論に戻ろう。
以上いろいろと書いてきたが、このような神への怖れを否定するかのごとき見解が納得できない、あるいはわたしの主張がピンとこないという人も多くいるだろう。そこで本頁においては、有名なタラントの譬え(マタイ 25:14-30)を手懸かりに、この問題について少し詳しく考察してみたいと思う。
タラントの譬えによると、ある資産家が自分の全財産を三人の使用人の能力に応じて、それぞれ五タラント、二タラント、一タラントずつ渡して旅に出るが、旅先から戻って預けた資産の精算をしたところ、五タラントと二タラントを預かった使用人は、それを元手にそれぞれ資金を倍にしたのに対して、一タラントを預かった使用人は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」〔補注1-1-1〕と言って、預り金を地中に埋めて隠しておいた。二人の使用人はそれぞれ資産家である主人に認められて多くのものを管理するよう命じられたが、預り金を地中に隠しておいた臆病な〔補注1-1-2〕は逆に職を失って路頭に迷う、といった内容である。――なお、タラントは古代ギリシアの貨幣単位で、この譬えから「才能」を意味する英語のタレント(talent)の語が派生するのだが、そのことからもわかるように、通常この譬えは、神から託された「賜物」をいかに活かすかといった文脈で解釈されることが多いようだ〔補注1-1-3〕。しかしながら、ここではそのような一般的な解釈はとりあえず脇において、結果的にお払い箱になってしまったこの気の毒な使用人に着目したい。
二人の使用人は、失敗を怖れずに―怖れたとしても、その怖れを乗り越えて―主人から預かった資産を大胆に運用したのに対して、彼の落ち度は、主人をただいたずらに怖れて、預かった資産を仕舞い込んで少しも活用しなかったところにある。結論を先に言えば、彼は怖れるばかりで、神である主人を少しも信頼していなかった。それがこの男の過ちなので、彼が神によって外の暗闇に追い出されなければならなかった理由もそこにあると理解したい。然るに多くのキリスト教著述家はとにかく神を怖れよとばかり主張しているようにわたしには思えるのだが(もちろん軽々には断定できないものの、特に時代が下るほどその傾向が強くなってゆくようだ)、そこにわたしは矛盾を感じるのだ。たとえば宗教改革者ジャン・カルヴァンも、その主著『キリスト教綱要』の中で《純正にして神聖なる宗教の本質は、自発的な畏敬を含み、律法の命令に適う正しい礼拝を生み出す、神に対する厳しいおそれに結びついた信仰にある》〔補注1-1-4〕と述べている。だが、クビになってしまった使用人もまた、同じく「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」として、神になぞらえられた主人を厳しく怖れている。主人がそれに対して「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか」と言って彼を責めているのとは裏腹に、――だいぶ強弁にすぎると感じる人もいるかもしれないが、――彼は多くのキリスト教著述家の言うような意味合いでまさに神を正しく怖れていると言える。その証拠と言ってはなんだが、「知っていたのか」という聖書の言葉がまさに暗示しているように思うのだが、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」という主人(神)に対する彼の評価は、やはり(キリスト教神学的に言えば)神に対する伝統的な評価であると言ってよいのではないだろうか〔補注1-1-5〕。それなのに、この神を怖れた使用人は主人である神からなぜあんなにも厳しい仕打ちを受けなければならなかったのか、わたしはそのことに疑問を感じるのだ。
脚注1-1(2):
たしかに(特に西方における)キリスト教神学において、わたしが見るところ、この使用人のような神への感覚、ひたすらなる神への怖れの感情が神に対する正しい感覚だと長年にわたって捉えられてきたことは事実であると言えよう。人間性を否定せんばかりのキリスト教プロテスタンティズムにおける極端な「罪人観」からすれば、それは当然の帰結かもしれない〔補注1-2-1〕。しかしながら、この譬えばかりでなく、たとえば放蕩息子の譬え(ルカ 15:11-32)や失われた羊(ルカ 15:1-7、マタイ 18:12-14)その他の譬えを語ったイエスにとっては、このような神の観念は必ずしも正しいものではなかったのではないだろうか。それはわたし一人の独断と言うよりも、福音書を読めば誰の目にも明らかな事柄だと言ってよいだろうと思う(否定する人も多いとは思うが、わたしはあえてそのように言うし、実際にも信じている)。怖れるばかりでひとつも神を信頼していなかった使用人は結果的に神によって退けられざるをえなかったわけだが、この譬えが示しているように、このように神を怖れる人間は、その怖れのゆえに救いを得られず、天の国から外の暗闇に追い出されるのである。ここで参考までに指摘しておくが、並行するムナの譬えの箇所においても、主人のことを《預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかった》(ルカ 19:21)と述べた僕は、主人である神から《その言葉のゆえにお前を裁こう》(同 19:21)と言われている。わたしがここで着目したいのは、神を厳しく怖れる彼のその言葉(想い)のとおりに彼が裁かれたということである。このように、神への怖れを過剰に強調する(あるいはそのような信仰を生きる)クリスチャンは、神に対するその想いのとおりに裁かれる可能性があるのではないかとわたしは思うのだ。おかしな考え方だろうか。
もっともわたしは、ある人が過剰に神を怖れたからと言って、ただそれだけでその人が滅びに渡されるなどと決めつけたいわけではない。そんなことは思ってもいない。そこでわたしは、それは必ずしも神が追い出したのではなく、自らが自らを追い出したとも言えるのではないかと解釈したい。何となれば、もともと天の国にいるのでなければ――あるいは天国に迎え入れえられることが前提になっていなければ――譬えとは言え「外の暗闇に追い出させ」という表現自体がそもそもありえないのではないかと考えるからである。もちろん「慈愛に満ちた神が単に(過剰に)神を畏れたというだけで、その人間を排除することはない」という見解もあろう。それにはわたしも同感なので、そのような神に対する過剰な怖れは結果として自らを天の国から追い出す行為につながると解釈するのもよいのではないかと考える次第である。(一部にはセカンド・チャンスなどの考えもあるようだが、いずれにせよこの手の問題は神が決める事柄だし、わたしにはもともとあまり興味のあるテーマではない。)
さらに、ここでもう一つ二つコメントしておくと、神を怖れた使用人は、主人である神から「怠け者の悪い僕だ」と非難されているわけだが、これもまた興味深いものがある。この言葉からわかることは、《神に対する厳しいおそれに結びついた信仰》(カルヴァン)によって、神から与えられた「賜物」をわざわざ地中に隠して活用しないことは、すなわち怠惰の悪徳であるということになる(深層心理学的に言っても、「怠惰」の背景には「怖れ」の感情が控えているように思う)。この気の毒な使用人のように臆病で動こうとしないのはそこに怖れがあるからで、その怖れに打ち勝とうとせず、そのための行動を起こさないという意味では、やはりそれは怠惰なのである。それは「変化」への怖れでもある〔後述「変化への怖れ」参照〕。
次に、岩波書店訳では《自分の財産を預けた》の箇所が《自分の財産を彼らに引き渡す》となっているが、これは「その持てるすべてをその能力に応じて、神は人類のすべてに賜物として授けて下さっている」と読むこともできよう。そのような賜物を「もはや汚れきって使い物にならなくなった」〔補注1-3-1〕などと身勝手に断じることは、敬虔でも何でもなく、かえって大きな罪、ひいては神に対する冒?だとわたしには思えるのだが、どうだろうか。この譬えはだから、神をいたずらに怖れること自体が罪であると言っているようにも見える。然るに多くのクリスチャンは、神を厳しく怖れるあまり、神からの賜物を活かさずに仕舞い込んではいないだろうか。神を怖れてせっかくの賜物を地中(土の器の中)深くに仕舞い込んで、その賜物を活用するために外へ出て行かないこと、あるいは出て行っても、「伝道」と称して神への厳しい怖れを多くの人に「伝染」させているようでは本末転倒というものであろう。
ここで、いささか余談ながら、カトリック教会で言われる「七つの大罪」のうちの一つが怠惰の罪であるとされることを指摘しておこう。怠惰にはラテン語のacediaないしpigritia(英語ではslothないしlazines)が対応するが、その類語として、無関心・無感動を意味するapathy(アパシー)をあげることができる。無関心には「政治的無関心」などさまざまなものがあるが、この場合の怠惰はまさに霊的な無関心を意味している。人は日常性への頽落において神を忘れること、すなわち霊的=宗教的な無関心としての怠惰の罪を問われ、「怠け者の悪い僕」として終末の時に神の御前で裁かれるのである。その意味で聖書においてタラントの譬えに先行して十人のおとめの譬え(マタイ 25:1-13)など“目を覚ましているべき”ことが語られる譬えが配されていることは大変興味深いものがある。眠ってしまった(霊的に眠りについてしまった)五人のおとめたちもまた主人の婚礼の席から追い出されるのである。
次に、岩波書店訳では《自分の財産を預けた》の箇所が《自分の財産を彼らに引き渡す》となっているが、これは「その持てるすべてをその能力に応じて、神は人類のすべてに賜物として授けて下さっている」と読むこともできよう。そのような賜物を「もはや汚れきって使い物にならなくなった」〔補注1-3-1〕などと身勝手に断じることは、敬虔でも何でもなく、かえって大きな罪、ひいては神に対する冒涜だとわたしには思えるのだが、どうだろうか。したがってこの譬えは、神をいたずらに怖れること自体が罪であると言っているように思える。然るに多くのクリスチャンは、神を厳しく怖れるあまり、神からの賜物を活かさずに仕舞い込んではいないだろうか。神を怖れてせっかくの賜物を地中(土の器の中)深くに仕舞い込んで、その賜物を活用するために外へ出て行かないこと、あるいは出て行っても、「伝道」と称して神への厳しい怖れを多くの人に「伝染」させているようでは本末転倒というものではないだろうか。
ところでいささか余談ながら、カトリック教会で言われる「七つの大罪」のうちの一つが怠惰の罪であるとされる。怠惰にはラテン語のacediaないしpigritia(英語ではslothないしlazines)が対応するが、その類語として、無関心・無感動を意味するapathy(アパシー)を挙げることができる。無関心には「政治的無関心」などさまざまなものがあるが、この場合の怠惰はまさに霊的な無関心を意味すると言うことができよう。人は日常性に埋没して神を忘れること、すなわち霊的=宗教的な無関心としての怠惰の罪を問われ、「怠け者の悪い僕」として終末の時に神の御前で裁かれるのである。その意味で聖書においてタラントの譬えに先行して十人のおとめの譬え〔マタイ 25:1-13〕が配されていることは大変興味深いものがある。眠ってしまった(霊的に眠りについてしまった)五人のおとめたちもまた主人の婚礼の席から追い出されるのである。
先にわたしは怠惰の背景には怖れの感情があると書いたが、無関心・無感動の背後にも怖れの感情が控えている。その意味で無関心も怖れの一形態なのである(「無関心」と言った場合は多少ながら積極的な印象もあるのに対して、「無感動」と言った場合はより怠惰に近い印象があり、その人が霊的にも病の状態にあることを示唆していると言える。その状態を「罪」として捉えることもできるのではないかと思う。マルコ2:17参照)。さらに、無関心としての怠惰はまた変化に対する怖れ(後述)をも生むであろう。しかも霊的な怠惰は必然的に神に対する怖れを生むのである。
以上タラントの譬えを下にしていろいろと書いてきたが、最後に「変化への怖れ」という観点から神に対する怖れについて考えてみよう。
神を怖れた使用人は怠け者だと責められたわけだが、先にも少し触れたように怠惰の背景に怖れがあるとして、その怖れは「変化」への怖れでもあるのかもしれない。上記と関連して、最後にそのことについても少し考えてみたいと思う。(泉田昭著『マタイによる福音書 翻訳と説教』〔いのちのことば社、2003年12月〕にそのような解釈がなされているのを知ってなるほどと思った。以下はその解釈に刺激されたわたしなりの考えを書いたものである。)
人間は本能的に変化を怖れ、安定を望むものだが、それが過剰になればやはり問題だと言わざるをえない。その意味で件の使用人も変化を怖れたため、せっかく主人から差し出されたタラントを無駄にしてしまったのだと解釈することができる。
いつの時代も変化をもたらす新しい教えは忌避されるものだが、それもこれも変化への怖れに由来するものだと言える。それは現代でも少しも変わらない。イエスが生きた時代に限って言えば、やはり同様にイエスの新しい福音(おしえ)を聞いて、少なからずこれを怖れた人たちがいる。イエスが処刑されたのも、当時の支配者たちの変化への怖れを呼び起こしたからだと見ることもできる。さらに変化への怖れには、既得権益が失われることに対する支配者たちの怖れもある。あるいは庶民が変化への怖れから(自身の首を絞めることになることを知らずに)支配者たちの味方をすることもあるだろう。イエスをまず怖れたのは当時の世の支配者たちであったが、最後は一般人もまたユダヤ教指導者とともにイエスを磔にせよとこぞって叫んだことからもそれは明らかであると言えよう。
イエスの教えが当時の支配者たちに変化に対する怖れをいだかせたということは、要するに彼らは「福音」を怖れたのだと言うこともできる。そして、神への愛を強調するイエスの教えが当時の支配者たちに忌避されたのだとすれば、現代でもそれが忌避されていないという保障はない(もしもキリストが今この世に来たとすれば、キリスト教聖職者たちはこぞって彼を再び十字架につけるに違いない。わたしたちは、《もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう》〔マタイ 23:30〕と平気で言うことができる存在なのだ。その意味でイエスは今も十字架に架けられたままなのである)。それに加えて、あえて言わせてもらえば、古来伝えられてきた神への過剰な怖れの教えも、もしかするともはや「古い教え」なのかもしれない。イエス在世当時だけでなく、今もまだ福音は忌避されているのかもしれない。怖れからの解放としての「新しい教え」が二千年も前に人類に伝えられながら、キリスト教において未だに神への怖れが強調され続けている。そこにも福音に対する忌避の念が現われていると見ることができるのではないだろうか。《だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう》(マタイ 14:16-17)
もっとも、「それが神への怖れなら何ら問題ないではないか」という意見もあるに違いない。たしかにそのとおりで、それが先に述べたように健全な怖れ(畏れ)ならば何も問題はない。けれども、人間のやることに完全はないということをわれわれは決して忘れてはならない。聖書にもあるように《義人はいない、ひとりもいない》(ロマ書 3:10)のだから、「(現在の)クリスチャンは信仰において間違えない」とは言いきれないはずである。それだから、その怖れが真実に神に対する怖れなのか、もっと別のものに対する怖れではないのかといった疑問は、やはりどこまでも残らざるをえない。自分たちが神に対する畏怖の念だと思い込んでいるものがほんとうに神に対する正しい怖れ(畏怖の念)なのかどうか、われわれはいつも自らを省みる必要があるのではないだろうか。
以上いろいろと述べてきたわけだが、神に対する怖れよりも神への信頼を強調するこのような見解に対して、それでも「神への怖れ」の必要性を強調する向きもあろう。そのような人は、先に引いた聖書、特に《だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない》(マルコ 10:15)という聖句についてじっくりと考えてみてほしい。幼ない子どもは何も《神に対する厳しいおそれに結びついた信仰》など知りもしないし(大体において健全に育った幼児は通常は両親を怖れない)、理解もしていない。それにも拘らず、「そのような者でなければ天の国に入ることはできない」とイエスは断言しているのである。イエスの許に群がった幼児には、神への厳しい怖れなどひとつもない。あるのはただ神(この場合はキリストであるイエス)に対する愛と信頼の念だけである。タラントの譬えに即して言えば、主人に認められた二人の使用人は、主人から「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人といっしょに喜んでくれ」(マタイ 25:21および23、〔補注2-1〕)と言われて祝福されるが、このように神を怖れずに信頼する者に対しては神もまたそれを喜ばれるのである(ここで臨床心理学的な観点から「信頼」ないし「信仰」とかなり関連すると思われる語に「甘え」がある。この信仰と甘えの問題については別頁にて詳しく論じる予定である〔→次頁参照云々〕)。そのようなわけで、敬虔からか神をひたすら怖れて、その感情のままに神を賛美したとしても、神はそのような賛美を決して喜ばれはしないだろうことがこの譬えからもよく了解できるだろうと思う。
要するに神によって裁かれるのはいたずらに神を怖れる人間なのであって、それに対してわたしは、「神を怖れよ」という宣教に対して、「神を怖れるな」という宣教が正しい福音だと信じ主張したいと考えている。ここで言う「神の賜物」は「神の似姿」と捉えてもよいと思うが、神の似姿たるその賜物を地中(土であるところの肉の器の中)にひたすら隠して活かさないことの罪であることをこの譬えは示していると解釈することもできる。さらに、預けられた資金(資本)は神を怖れた使用人から取り上げられるが、これは神の与えられた使命ないし賜物の剥奪を意味している。神を厳しく怖れる想いとは、だからその人間が神の似姿を失うことにもつながる悪しき想いであると解釈することもできるだろう。それに対して一部のキリスト教著述家によれば、アダムの堕罪によって人間のうちには神の似姿のカケラもない〔前記補注1-3-1参照〕とされるわけだが、くりかえし言うが、プロテスタンティズムで主流を占めるこのような見解にわたしは異を唱えたいと考えているのである。
先にわたしは、怖れにも健全なそれと不健全なそれとがあると書いた。当然ながらクリスチャンは、自分たちの主張する神に対する怖れを健全で正しい怖れだと主張するだろう。けれどもわたしには、彼らの言う《神に対する厳しいおそれ》が健全で正しい怖れであるとはどうしても思えないのである(ただし、わたしは神への畏敬の念や畏怖の念までこれをすべて否定しているわけではない。これについては前頁で詳しく説明しておいたとおりである)。