前章などでわたしは神への怖れを強調する教説に対する違和感をいろいろと述べてきたわけが、それらを読んで、この人はよほどカルヴァンが嫌いらしいと思った人がいるかもわからない。序文でも書いたように、確かにわたしにはカルヴァンの思想は肌に合わない。だからと言ってわたしは、必ずしもルターやカルヴァンといった宗教改革者が全て間違っていたと主張したいわけではない。評価できないと言いたいわけでもない。確かに彼らは自らの信仰に対して実に誠実に思索し実践したのだろう。伝記を少しでも読めばわかる通り、これは紛れもない事実である。しかしながら、肉体を持った人間のやることは全て不完全であって、これはルターやカルヴァンとて例外ではない。そのため、彼らの熱情や誠実さがかえって裏目に出てしまったという側面があるのではないかとわたしは思うのだ。
ルターやカルヴァンは、結局のところ神に対する怖れをより強調することで、信仰の成熟を実現したかったのではないだろうか。しかし、その結果は決して望ましいものではなかったように思う。わたしはその彼らの思想がもたらしたものに疑問をいだいているわけだが、ここではその問題ではなく、まずは彼らも当然重視したであろう信仰の成熟の問題について考えてみたい。
信仰の成熟を取り上げるに当たって、本来ならば、その前提として、成熟とは何か、具体的にはどのような状態を成熟とするのか、といった事柄から論じなければならないだろう。しかしここでは、それはある程度わかっているものとして議論を進める。単純に言って、成熟とはさまざまな意味で大人になることだとしておこう。人間が大人になるには(現代においては)少なくとも普通20年近い時間の経過が必要である。しかも人間が成熟した大人になるには、肉体面の成長だけでなく、あるいは知識面だけでもなく、心理面や精神面といったさまざまな側面のバランスの取れた成長が必要となる。そのため、人間は生まれてから大人になるまでの間、家庭や社会によってさまざまな教育を受けることになる。それに加えて、最近は教育心理学でも、人間が健全な発達ををするためには、親にしっかりと甘える経験、そういった時期が極めて大切だとされる〔補説1-1〕。要するに人間が成熟するには、その前の未熟な段階も極めて大切な時期であって、この時期をないがしろにすることはできないということである。
しかも、これは何も成長に限らない。習い事でも何でも一朝一夕には成就できないことは多くの人がご存知であろう。何事もそうだが、基本を学ばず、基礎の段階を経ずして、一足飛びに誰もプロの段階には到達しない。信仰とて同様で、基礎の段階、未熟な段階を無視して、いきなり成熟した信仰を求めても無理というものなのである。大体、人間が成熟するにも幼い段階があり、時間をかけて成長してきたのだから、信仰の成熟にもそれなりの時間をかける必要があるはずである。それならば、信仰者に多少未熟なところが認められれも、特に初心者の場合、あるいは一般信徒の場合でも、ある程度はこれを容認し、その信仰で十分安心して神を求めさせてあげる柔軟さが教会や指導者に求められるべきではないだろうか。もちろん成熟した信仰とはどのようなものか(本当に理解できるかどうかは別にして)初期の段階できちんと教えておく必要はあるかもしれない。当然それは大事なことだが、生まれたばかりの子どもにいきなり牛肉のステーキを与える愚を犯す親がいないように、何事も焦りは禁物である。その意味で彼らを成熟した信仰者に育てるのは、教導者や先輩方の役割であり、腕の見せどころだと言ってよいかもしれない。いくら成熟した信仰の状態を神学的にも明確にしたとしても、単なる教理問答書をまる覚えしたような理解でこれができると思ったら大間違いなのだ。
しかも、教会ではいつも新しい信仰者を迎えるべくその門戸が開かれていなければならない。教会はいつも初心者を教会員に抱えていなければならない宿命にある(これは何も教会だけのことではなく、この世の組織の全てが抱えている限界であると言えよう)〔補注1-1-1〕。初めて教会の門を叩いた求道者にいきなり確立した成熟した信仰なるものを求めるわけにはもともとゆかないのである(中世および近世のヨーロッパにおいてはその住民のほとんど全てが形だけでもキリスト教徒だったわけだから、宗教改革時における初心者はカトリック信仰からの転宗者がこれに当たる。ただ、ここではその点は脇に置いて、現代のことも考慮に入れて論じている)。確かに信仰教育のためには、形を為した、しっかりした教理も必要だろうが、それだけで教会員の教導が全て賄えるわけではあるまい。教会はこのようにいつも不完全な状態に置かれていることになるのだが、逆に言えば、それだからこそ教会は生きた信仰共同体なのだとも言えよう。そのため、人間の成長と同様、効率が悪いかもしれないが、さまざまなハプニングの中での生きた教育が必要となる。単なる知育ならまだしも、霊的な事柄(これは人間的かつ人格的な事柄においても同様で、何も霊的な事柄にばかり限定されない。わたしは人間的・実存的な事柄はすべからく霊的な事柄でもあると捉えているが、両者はやはり無理に区別すべき事柄ではないのかもしれない)を効率的に教えることは基本的に不可能だ。多少の効率化は可能だろうし、必要かもしれないが、いたずらに効率を優先したら、信仰教育はおろか人間教育も無残な結果に終わる可能性が高い。この世においては、教会も信仰者も、不完全なまま、未熟なままこれを容認することが求められている――いや、人間そのもの、そして世界そのものがもともと不完全さを免れない存在なのであって、この世界においては完全無欠な教理や教会は誰にも実現できない。それはいわゆるユートピアの夢でしかないのであって、われわれは常にそのことを意識する必要があろう。
ライフサイクル論やアイデンティティの用語で知られるエリクソンは、人間の成長にとって一番大事な発達課題は「基本的信頼」(この発達課題が相当する時期は0〜1歳半の乳児期で、フロイトの言う口唇期に該当する)だとする〔『幼児期と社会1』仁科弥生訳、みすず書房、1977年5月刊〕。次項の「甘え」の問題とも関連するが、母親に心ゆくまで甘える(授乳を含む)といったことなどから培われるこの基本的信頼感が弱いと、その人が病的な依存など心理的な問題を抱えることが多くなるだろうことはよく指摘されるところである。そのような基本的信頼感の弱い人が誰かを愛した場合、それが一種の依存的なしがみつきにしかならない可能性は極めて高いし、そのままでは彼が人生において成熟した愛を手に入れることは難しいだろう。さらに、そんな人間が長じて何らかの宗教を信じたとしても、そのような心理的状態で為される信仰がそのままで成熟した信仰に育つ可能性は極めて少ないと言わざるをえないのは論を俟たない。基本的信頼感なしの信仰態度(基本的不信感に根ざした信仰態度)はかえって病的な「狂信」を生むなのだけである〔谷口隆之助『疑惑と狂信との間』川島書店、参照〕。そんなわけで、もしも基本的不信感(怖れ)の方を育てがちな宗教信仰があるとしたら、それだけでその宗教は問題を抱えていると言ってよいであろう。その意味で基本的信頼感を信仰者にどれだけ得させられるかでその宗教の真価が決まるので、その点を無視して、その宗教や信仰が正しいか否かを客観的に論じることはあまり意味がないとわたしは信じている。当然のことながら、宗教を信じるにしても――逆に思えるかも知れないが――まずは「基本的信頼」を自分の中に確立してからの方がよいだろう。もっとも基本的信頼を十分に確立できていない人の方が現実としては多くいるだろうことは想像に難くない。そこで現実問題として、その入信者が基本的信頼感を得られるよう、その宗教の先達などがその人の信仰(信頼感)を時間をかけて育ててゆく必要がある、ということになる次第である。→
ここで多少余談ながら、未熟な信仰と成熟した信仰の問題に絡んで、「信頼」と「甘え」および「依存」との関係について簡単に触れておこう。
近年、信仰を依存と同一視し、これを否定的に捉える向きが多いが、わたしはそのような見解には多少異義がある。確かにいつの時代も「宗教は民衆の阿片」であったろうし、今もその手の宗教、偽造宗教および宗教偽造の営み(谷口隆之助)が存在するのは事実だが、だからと言って、そのことをもって全ての宗教的営みを否定するのは間違っている。それにわたしは、信仰は単なる依存ではなく、これを単純に同一視することはできないと信じている。もっともこの両者には共通する部分もあり、その切り分けは難しいのも事実である。残念ながらこの問題について詳しく論じる力は今のわたしにはないが、この問題についてごく簡単ながらここで触れておきたいと思う。
『「甘え」の構造』〔弘文堂、1971年〕で知られる精神科医・土居健郎は、その一連の著書で甘えに相当する言葉が欧米には存在しないことを指摘し、日本文化に特徴的なこととして、その治療的効果も含め「甘え」を積極的に評価した〔補注1-2-1〕。また、同じく精神科医の渡辺登によれば、「甘え」は「依存」に包括することができる概念だと言う〔渡辺登『よい依存、悪い依存』朝日選書、朝日新聞社、2002年1月、p.96〜97〕。そして、渡辺は依存も発達段階に応じたものであればそれはよい依存だとするのだが〔同書、p.52〜54〕、《支え支えられ、与え与えられ、癒し癒される成熟した依存》〔同書、p.52〕という渡辺によるよい依存の説明は、まさに土居の言う意味ので「甘え」と共通する部分を持つと見てよいだろう。したがって、ここで「神に対して甘えることは許されるだろうか?」と問われれば、わたしも私はある程度は許されると答えたい。その人の信仰の状態(成熟度)によっては、神に対する甘えも許容されると思うからだ。もちろんいつまでもその段階にいてはいけないだろうし、それでは成熟した信仰とは言えないかもしれないが、それでも神に対する関係としては、神を過剰に怖れるよりは神に甘える方がよほど優れた態度だと言えるのではないだろうか。わたしはそのように考えている〔補注1-2-2〕。
わたしはこれまで神に対する過剰な怖れの強調にいろいろと疑問を呈してきたが、誤解をする人がいるかもしれないので、ここで改めて論じておきたいことがある。それは、わたしは人間を越えた存在者〔補注2-0-1〕に対する畏敬ないし畏怖の念まで否定しているわけではない、とうことである。
たとえば大自然や超越者に対する畏敬の念を失った文明がどうなるか。前世紀初頭以降、現代文明の危機が喧しく叫ばれるようになって久しいが、それもこれも技術文明のゆきすぎた発達に原因がある。特に18世紀の啓蒙思想以来〔補注2-1-1〕、宗教が多くの人の心を捉えることができなくなって(これを一般に「世俗化」などと言う)、人間の力を絶対視し、悪い意味の人間中心主義がはびこることになった。しかも、特に現代になって、自ら生み出した核の力に代表される科学技術がかえって人類を亡ぼしてしまいかねない事態になってきた。それに対して、ただ単純に「自然に帰れ」と叫ぶのは、簡単ではあるが愚かな選択だ。しかし、人間を越えた存在や自然への畏敬の念、人知を越えた存在に対する謙虚な姿勢を復活させることは決して愚かな選択とは言えないはずである〔補注2-1-2〕。もっとも、それが宗教にできるかどうかとなると疑問視する人も多いとは思うが(わたし自身は宗教に期待したい想いが依然強いのだが)、いずれにせよ人間が宇宙の森羅万象に対してもっと畏敬の念を持つべきことが大切であることに変わりはない。ただ、先にも多少論じたように、何が健全な怖れ(畏怖)の感情で、何が不健全な怖れ(畏怖)の感情なのか、これを正確に切り分けることは意外と難しい。古代や中世の信仰者であったら、自然に対して畏敬ないし畏怖の念を持つことなど誰でもごく普通にできたであろう。しかし、当時は何の努力も思索も要らず、誰でも自然に持てたこのような自然な感情も、科学の進んだ現代人にとってはやはり極めて難しい感覚であると言わざるをえない。
いささか余談ながら、畏怖や怖れの念と深いつながりのある驚きの念についてここで簡単に述べておきたい。
見るもの聞くもの全てに対して目をきらきらと輝かせている乳幼児をみかけることがよくあるが、子どもはまさに好奇心の塊である。しかし、自分もそうだが、人は成長して知識が増えるに伴い、そのような目の輝きを次第に失ってゆく。人類とてもそれは同様なのかもしれない。
個人と同様、世界に対する驚きの感覚を失った人類は次第に霊的な感性を失い、その結果、必然的に世俗化した。自然に対する畏敬の念を忘れた人類は、次第に霊的な感性を忘れ、かくて過去の時代と比べてより動物的とも言える状態に陥ってゆくことになる〔以下の内容について詳しくは、ヴァン・デン・ベルク『現象学の発見――歴史的現象学からの展望』(立教大学早坂研究室訳、川島書店・1988年2月)、特に「第三章 現代と宗教――その現象学」を参照〕。そんな状況の中で、人間が大自然に対する畏怖の念を失うに至るのは理の当然であると言えよう。たとえばダーウィンですらその著書の中でクジャクの羽の美しさに感嘆の念を隠さなかったが、現代において科学の専門書で驚きの念が記されることは絶えてなくなったという〔同書p.57〜59〕。ここにおいて、今や科学的探求の中にもかつては残っていた《驚き》という宗教的・霊的な感性〔→次項参照〕すら一切なくなってしまったのである。現代における科学的世界観は宗教的世界観に敵対しているかの感すらあるが〔同書p59〕、そんな状況の中にいる人間は当然ながら信仰を持たない。いや、持てなくなったと言った方が正確かもしれない。こうして、霊性を失った現代人は過去の人間に比べて単に知的なだけの性的な獣にすぎなくなった。これが人間の非人間化、すなわち現代社会における人間の霊的・実存的な危機(ベルジャーエフ)であると言えよう。
さて、いささか脱線するが、ここで少し論じておきたいことがある。先にも述べたように、わたしは宗教的・霊的な感性を《驚き》の感覚(センス・オブ・ワンダー)とほぼ同一視しているが、そのことについてここで少し説明を加えておきたいと思う。
アリストテレスは、哲学は《驚き(タウマイゼン)》から始まると述べた。古代ギリシアにおいて一般に知の営み(愛知)は神話からの決別に始まるとされるが、わたしは宗教とても最初は驚きから始まったことに変わりはないと考えている。その意味で驚きの念もまた宗教的な感性であると言える。ただ信仰の場合、哲学や科学とは違って、その驚きの体験はそれと同時に畏怖の念をも発生させたであろう。それが哲学ないし科学の始原と宗教の始原にあった驚きの感覚の違いであると言える。
このようなことを書くと違和感を持たれる方がいるかもしれない。というのも、一般の哲学入門書では古代ギリシアにおける哲学の発生を「神話から哲学(自然科学を含む)へ」という図式で説明していることが多いからだ。このような疑問を持つ人は、たぶん宗教に属する神話と宗教から決別した哲学とは別物だとする人たちであろう。もちろんそれは正しい理解だと思うが、ただわたしは、神話と宗教(信仰)に関しては、両者は深い関係はあるものの厳密には別のものだと考えている。というのは、神話とは古代人の宇宙観・世界観によるこの世の森羅万象の「説明」であって、必ずしも実存的なレベルでの信仰を伴わずとも、その世界観をそのまま受け入れることは可能だからである。たとえば現代人が天動説に代わって地動説を科学的事実としてそのまま素直に受け入れているのとそれは同じ態度であると言えよう(たとえば「お日様が昇った」という表現が自然に使われていることからもわかるように、誰も地球の自転を感覚的事実として認知している人はいない。現実的にはわれわれは今も天動説の世界観の中で息づいているのであって、その意味で天動説はわれわれにとって中世期の信仰と同様に事実として無反省に受け入れられていると言うこともできる)。かつてカントは「わたしは哲学を教えることはできない、皆さんといっしょに哲学するだけだ」と言ったと伝えられるが、何らかの哲学説をそのまま信奉しているだけではこれを哲学的な態度と言うことはできないのである。
もちろん神話にしても、あるいは何らかの宗教の教えにしても、それは、人間の力では克服することのできないさまざまな限界状況(ヤスパース)において、人がそれらに対して合理的に説明を与えようとしたものであるとも言えよう〔補説2-2-2〕。しかし、その宗教なり神話が生まれた当初、すなわち人がそれらの端的な事実に直面した時には、おそらくその根底には驚きの念や畏怖の念があったはずである。然るに、それらの体験が次第に形骸化して、限界状況を乗り越える、ないしはそれを上手くかわすための手段すなわち方便としての「説明」が一人歩きをするようになるとどうなるか。ここに宗教なら宗教(教義)の形骸化が生まれる。それは「宗教偽造」(谷口隆之助)にもつながる必然的な「運動」でもあると言えよう。それは神話的世界観とて同様で、それが当初の驚きの感覚を失ったからこそ古代ギリシアにおいて哲学的な思惟が生まれたと解釈することも可能なのである。ちなみにパスカルは信仰は賭(自己投企)だと述べたが、そのような契機を欠いて、ただ惰性で信じているだけの宗教の教義も当然ながら単なる形骸にすぎない。そこには驚きの念も畏怖の念もないと言ってよい。
なお最後に、ここで論じた宗教的感性としての大自然への畏敬の念は、キリスト教に限らず宗教一般の事柄として論じたことをお断わりしておく。
ノン・クリスチャンとしては上記の主張は当たり前の感覚だと思うが、それに対して諸宗教とキリスト教を同一線上に論じることに疑問をいだく方があるかもしれない。たとえば「自然への畏怖の念などはキリスト教以外の諸宗教にも認められる原始的な宗教感情であって、キリスト教のような高度な宗教が本来持つべき感情ではない」とする反論もあろう。あるいは「それらの原始的・自然的宗教における神への怖れの感情は、人間に怖れをもたらす超越的な神々の怒りを宥めるための呪術的儀式でしかない」という反論も当然ながら予想される。後者の主張の代表はカルヴァンだが、カルヴァンは逆に(倫理的・道徳的な意味も含めて)神を「もっと厳しく怖れよ」と言うのである。(ただ神への怖れの問題もそうだが、残念ながらここでキリスト教と諸宗教との関係にまで議論を発展させる余裕はない。いずれ機会があればこの問題についても詳しく考察してみたいと考えている。)
生命への畏敬の念や大自然に対する畏怖の念と言った宗教的感情は、ひとえに全ての宗教が有する宗教的・霊的な感覚である。それはキリスト教以外の自然的で原始的な宗教だけが有する感情ではない。それはキリスト教を含む全ての宗教が有する超越者に対する原始的で本源的な感覚なのだ。しかしながら、その感情が原初的だからと言って必ずしも低次元な感情だと決めつけることは間違っている。然るに、近世のキリスト教的な価値観によってこれらの自然な感情が繰り返し否定されてきたがゆえに(その否定にはキリスト教ばかりでなく、18世紀以来の啓蒙主義的な価値観もあずかっていると思う)、かえって宗教の形骸化(世俗化)が促進されたのではないか。そんな側面もあるようにわたしには思えるのである。
最初にも説明した通り、わたしは神に対する畏怖ないし畏敬の念を全て否定して、神をただ信頼すればよいと思っているわけではない。わたしにしても、大自然や超越者に対する自然な畏敬の念は確かに現代人がぜひとも持たねばならない、あるいは復活させるべき感覚だと考えている。先に述べた通り、人間を越えた存在に対する自然な畏敬の念を取り戻すためにも、神に対する信頼の感情をわれわれは取り戻すべきなのではないかと、わたしもそのように考えている。ただその際、誤解を避けるためにも、「畏怖」という言葉よりは「畏敬(の念)」という表現を用いた方がよいのではないかと思うのだ。それというのは、最初は大自然に対する驚異や畏敬の念であったものが、次第にそれが畏怖の念となり、怖れの感情となったのではないかと考えるからである。ただ、その怖れがさらに先鋭化した場合、それが一種の怯え(フォビア)のような歪んだ感情になってしまう可能性も否定できないのではないだろうか。
科学技術の暴走は、いつか近い将来に人類の滅亡をもたらすかもしれない。現代人は今、そんな漠然とした不安の中にある。そんな中で過剰に神への怖れを強調することはかえって悪しき結果を生むだけのように思う。したがって、上記で論じたように神に対する怖れを過剰に強調するだけでは、心理的にも歪んだ信仰者をつくるだけで、「信仰による人間疎外」の問題などに見るように、かえって予期せぬ結果を生むことにつながるのではないかとわたしは言いたいのである。
以上、怖れとその反対概念に当たる愛や信頼について、私の違和感を中心にキリスト教信仰との関係から論じてきたわけだが、最後にここで多少簡単がながら結論的なことを書いておきたい。
心理学に関しては素人ながら、わたしは、愛や信頼と怖れとは、少なくとも同じ対象に関する感情としては本来同居しないのではないかと考えている。ましてや、それがその対象との関係の在り方を意味する言葉として使われた場合はなおさらである。もちろんわたしは神や神的な存在に対する畏怖や畏敬の念を必ずしも否定するつもりはない。しかしながら、ある対象に対する怖れの感覚が特に過剰な場合、その対象に対する愛や信頼の念は自然と薄くなるはずで、この両者はもともと両立が難しい観念なのだと思うのだ。もちろんこの両者の同居が全くありえないかどうかはわたしには断定できないが、もしもそれが同居しうるとしたら、その場合はかなり病的なものとなるのではないかと素人ながら推察している。それだから、愛や信頼と同時に怖れの念をある対象に対して持たせようとするアプローチは、かえってその対象に対するアンビバレントな感情を呼び起こし、その関係を病的な歪んだものにする危険性が高いと考えられる。それに、とかく人間は愛や信頼よりも怖れや敵意の方に親和性を持ちやすいものである。そんなわけで、上記で触れたカルヴァン流の《厳しいおそれに結びついた信仰》は、怖れを強調するあまり、神への信頼の念をかえって「疎外」(この場合は「阻害」の方が表現としては適切かもしれないが、あえてこの表現を用いる。何となれば神との信頼関係から「的外れ」〔=罪〕となった状態とは、まさに神との「疎外」状況そのものに他ならないからである)する結果を生むのではないかと思う。上でも述べたように、神に対して独裁者ないし暴君に対するかのような接し方(=服従)をする人が真実に神を愛せるとはわたしには到底思えない。また、性格的に歪んだ愛や怖れの持ち主が、神だけは正しく愛し怖れることができるとも思えない。そんなわけで、最初から神への怖れを強調するアプローチ(神への接近の試み)は、その主張者の意図しない結果をもたらすだけのように思えるのである。
議論としていささか唐突な印象を与えるかもしれないが、それが結果するところは、時に人間の歪んだ怖れや敵意の神に対する(深層心理学的な意味における)投影をも生むだけであろう〔補注4-1〕。それは、時と場合によっては人間の非人間化を助長しかねないアプローチでもあることになる。クリスチャンの当初の意図と違って、神への過剰な怖れの強調は、皮肉なことに(聖書カルトによる宣教について触れた時にも見たように)福音を福音でないものに変質させてしまう結果を生むことにつながりかねない。これが、カルヴァン流の禁欲的なピューリタニズム――いや、より正確に言えば、古代教会以来キリスト教がその教義解釈を先鋭化ないし急進化(Radicalization)させてきた、その行き着く先だったのではないか。わたしはそのように考えているし、それが本サイトにおけるわたしのキリスト教批判の主眼目でもある。
補注4:
福音は、「怖れよ」と伝えているのか、それとも「怖れるな」と伝えているか?
冒頭に引用した聖句にもあるように、聖書は羊飼いたちに対して明確に「怖れるな」と語りかけている。「(神を)怖れよ」であれば、旧約時代から散々言われてきた(もちろん「神を愛せ」も数限りなく言われてはいるのだが)。イエス・キリストの福音に新しさがあるとすれば(もちろんそれが新しくないわけがない!)、やはり聖書は「(神を)怖れるな」と言っていると解釈すべきではないだろうか。何となればイエスは、人が神を父として、しかも幼い子が父親を呼ぶ時に使う「アッバ」という表現で神を呼び求めるように誘ったのである。そして、イエスの新しさはここにあるのではないかとわたしは考えている(もちろん旧約でも神は「父」のメタファーで呼ばれるが、しかし、その父を「アッバ」と幼児語で呼ばせたのはイエスが初めてである)。ここでは聖書などを引いて詳しく論証することはできないが、少なくとも新約聖書が旧約聖書以上に神への愛を強調していることは間違いないであろう。もっとも、これが聖書根本主義的な立場の信仰では、旧約も新約もほぼ同次元で重視するために、「怖れるな」の福音が活かされずにきてしまったのではないかとわたしは推察している――しかも、近年特にその傾向が強くなっているように思うのである。(ただし、ここで誤解のないように申し添えておくが、ユダヤ教の神すなわち旧約の神が怒りの神であるという捉え方は必ずしも間違っていないと思うが、最近それを強調しすぎるのは疑問に思うようになった。何となれば、神への怖れの強調は、ユダヤ教に由来すると言うよりも、先に触れた先鋭化という視点から見て、ある意味でキリスト教に特有の変化の側面も強いのではないかと考えるからである。)
怖れの感情から人はその対象を真に求めるものだろうか?
再度聞きたい。福音は「神を怖れよ」と伝えてるのだろうか? それが喜ばしき音ずれだったのだろうか?
先に引用したパウロの言葉からも明らかなように、要するに福音とは、わたしたちがイエス・キリストを通して神を自らの父(アッバ)として愛することを許された、そのことの「福音」(Good
News)なのだ。何となれば、再度引用するが、私たちは《再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。》(ロマ 8:15) すなわち、タラントの譬えにおける《主人といっしょに喜んでくれ》(マタイ25:21、23)の直訳が「主人の喜びに入れ」であることからも明らかなように、福音において彼は神と喜びの関係に入るのであって、怖れの関係に入るのではないのである。
私もかつてそうだったが、その喜びによって、その喜びにおいて、わたしたちは信仰告白をするのである。怖れの感情からではない。(もっともわたしの場合は、それはキリスト教以外の宗教の信仰であって、その喜びの内容は当然ながら違うのだが、本質的には、すなわちその信仰の姿勢ないし方向性においては同じものだと信じている。)
本来このテーマ(「怖れに根ざした信仰」)は、カルヴィニズムとその近代への影響について考察する導入部(序論)として書き始めたものなのだが、実際に執筆してみると、これがとんでもないテーマであることがわかった。この問題はキリスト教の根幹に関わる、それこそ相当に詳しく論じなければならないテーマだった。本テーマは、わたしにとっては本来、序論的な論考というよりも本論的な位置づけを持ったテーマだったようだ。それを今回改めて認識させられた。そんな訳で、これから本テーマの各論的な議論に入ると(当初の予定では、ルターの個人的な回心の体験や、アメリカにおける大覚醒時代に活躍したジョナサン・エドワーズの脅迫的な説教などについてもいくらか触れる予定だった)、いくら書いてもキリがない感じになってきた。単にわたしが怠け者だということもあるが、このままだと当初予定していた論考にいつまでも手がつけられなくなる。そこで、本テーマは折々加筆は続けるものの、とりあえずはこれでいったん終了とし、当初予定していた論考の執筆に移ることにした次第である。