わたしはクリスチャンではありませんが、福音書を中心に聖書に長年親しんできました。
聖書を読んで、あるいは牧師の説教を聞いたりして、躓いたり反発を覚えたりした人も多くいることと思います。わたし自身、聖書は口語訳で三回、新共同訳(続編付)で一回通読しているのですが(わたしの場合、通読は一日二章ずつ、新約から始めて旧約、そして新約と読み進めます)、わたしが特に違和感や反発を覚えた箇所は、いま思い出すだけでも、旧約で二箇所、新約で二箇所あります。今その内容には触れませんが、このサイトは、そのような聖書の箇所に真正面からアプローチしてみることもその目的の一つとしています。
本サイトは、当初anti-biblia.comのドメインにてアップしましたが、レンタルサーバーの廃業を機にドメインをherem-killer.comと改め、新規にアップすることにしました。新規ドメインの由来等については、現在執筆中の論考の次に執筆予定の文章にて詳論いたしますが、これは当初から当サイトの管理人のハンドル・ネームとして用いていたものです。ここではごく簡単に説明するにとどめます。
まずヘレムないしヘーレム(herem)とはヘブライ語(ギリシア語形はアナテマ)で、一部の聖書ではこれを「聖絶(せいぜつ)」と訳しています。また、キラー(killer)は殺し屋を意味する英語(研究社英和中辞典によれば、他に「驚異的なもの、すごいもの、すばらしいもの」、形容詞としては「厳しい」という意味もあります)で、それに「嫌い」をかけています。このヘーレムの意味等についてはいずれ詳しく書きますが、本来はヨシュア記などにおける異民族殺戮その他を内容として含む宗教的・儀礼的用語です。そのような特殊な用語に聖戦を連想させるような「聖絶(sacred eradicate)」なる語を与えることにわたしは非常なる疑問をいだいています。執筆の順序は逆になりましたが、この語に対する違和感や憤りの気持ちが本サイトを公開する動機の一つとなっています。もちろん異論はあると思いますが、わたしは旧約聖書に特有のヘーレムの原義を多少拡大解釈して、「聖絶」を旧約時代に特有のいわゆる「聖戦」(岩波書店訳の旧約聖書でも「聖絶」の語が採用されていますが、岩波訳ではヘーレムの意味を古代パレスチナ世界における「聖戦」の意味に限定して用いています)を意味する語にとどまらぬ、現代における民族浄化やジェノサイドをも意味する語としてこの語を解釈しています。
このようなテーマは、ひと言で言えば「旧約聖書と戦争」とか「キリスト教は戦争好きか」、あるいは「暴力と聖性」といったテーマとして括ることも可能でしょう(以上は、わたしが読んだ、ないし未読ながら手許にある本の題名から採りました)。そのため、この問題を本格的に論じるには、旧約時代に限らず、中世の十字軍や魔女狩りはもちろん、ホロコーストや近年の宗教テロにも目を向ける必要があります。もともとこの手の問題に不案内だったわたしは、そのために、ホロコーストをはじめとする現代史に関する著作などにもここ数年いろいろと目を通してきました。そんな関係から、わたしの関心がキリスト教そのものから最近だいぶ外れてきたことも事実です。本サイトではキリスト教とホロコーストの関係等についても今後取り上げる予定ですが、場合によっては議論がキリスト教からかなり逸脱する可能性もあります。したがって、キリスト教との関連はあるものの、直接キリスト教と関係するわけではないテーマをも包括するサイトとして、ここに新たなドメインを設けた次第です。(ただしここ1〜2年はキリスト教に限定したテーマを追いかけることに違いはありません。したがってここしばらくは、サイト名の「聖書信仰を問いなおす」はそのままとします。)
(2013年7月4日追記)
クリスチャンの中には、わたしのようなノン・クリスチャンが聖書を個人的に解釈することに否定的な人が多いと思います。しかしながらわたしは、牧師経験もある宗教哲学者・谷口隆之助が言う意味で、聖書を《万人に共通の「宗教的古典」》と捉えたいと考えています〔脚注1-1〕。
《わたしは聖書をキリスト教の正経として語ったのではなく、それを万人に共通の「宗教的古典」として語っている》《現代のような時代においてはとくに、さまざまの成立宗教におけるそれぞれの経典を、万人に共通の宗教的古典として、ひとりひとりがじかに自分の膝で読むことが非常に大切だ》〔谷口隆之助『聖書の人生論』川島書店、1979年、p.190〕とする谷口は、「宗教的古典」について次のように説明しています。
……さまざまの古典のなかで、宗教的古典がまさに宗教的古典として他の諸古典と区別されるその根本の特徴はどこにあるのであろうか? それは、端的に言えば、それが自然科学的な文書でもなく、また単に人間の文化的・社会的生の次元における諸現象やまた諸価値にかかわる文書でもなく、それが人間存在の究極の次元における人間としての究極の在りかたを開示し、そこにおける豊穣ないのちと存在との体験を伝達しようとする文書であるところにある、とわたしは見るのである。(谷口前掲書、p.190〜191)
もっとも、このように聖書を万人に共通の「宗教的古典」と捉えた場合、それは、聖書といえども他の宗教の聖典と同等の存在として(悪い意味でなく)相対化されることを意味しています。このような立場を受け入れられない人も少なからずいるでしょう。しかしながら、聖書をクリスチャンの専有物とすることで、キリストの精神から多くの人を遠ざける結果になっては意味がありません。異論はいろいろとあると思いますが、聖書の解釈も、ひとりクリスチャンだけのものではなく、万人に開かれたものであるべきだとわたしは信じています。何となれば、本来キリストの言葉は、キリスト者であるとないとを問わず、万人に向けられたものであったはずだからです。
このような立場を表明すると、わたしが高等批評的な聖書の読み方をして単にキリスト教や聖書信仰を批判しようとしているのだと思う人があるかもしれません。聖書をキリスト教の正経(せいきよう)としてではなく、それを万人に共通の宗教的古典として捉える立場がリベラルな聖書学の立場と親和性を持ちやすいことは事実です。たしかにわたしも聖書学者の本を好んで読んではおりますが、しかし、聖書学的な知識を援用して、本サイトで単なる聖書批判を行なうつもりはありません。わたしが批判的なアプローチを目的としてこのサイトを公開したことは事実ですが、それは、わたしがキリスト教に敵意や悪意を持っているがゆえではありません。単に聖書やキリスト教を一方的に非難したり攻撃したりすることがこのサイトの目的ではなく、当然ながら本サイトはキリスト教否定を目的としたサイトではないのです。
そこで、誤解を解く意味もかねて、聖書解釈に対するわたしの立場を表明しておきたいと思います。
聖書批判に関しては、わたしはこのように解釈しています。たとえば「聖書は神様のラブレターだ」とよく言われます。意外に思われるかもしれませんが、わたしはそのことを否定するつもりはありません。ただわたしは、たしかに聖書は人間に対する神様の思いを人間が代筆した書物ではあるけれど、その代筆時に(人間を通して)聖書に誤ちが紛れ込んだのだと捉えているのです。要するに聖書は、“人間が神の言葉を誤って聞き取った記録”でもあるということです。福音主義や聖書根本主義の人たちは当然ながらこのような見解を否定するでしょう。けれどもわたしは、聖書が神の言葉をある時は正しく、ある時は誤って聞き取った記録だからこそかえって真実(リアリティー)を宿しているのだと考えています。その意味で聖書とは、その時代により、また読む人により、そのつど正しく解釈され(解釈し直し)続ける必要のある書物であるのです。したがって聖書とは、過去に書かれた死んだ文書ではなく、今も生き生きと人間に語りかけている生きた書物なのです〔このことに関してはいずれ詳しく書きたいと思っておりますが、とりあえずはマルティン・ブーバー『出会い 自伝的断片』最終章「サムエルとアガグ」(児玉洋訳、実存主義叢書13、理想社、1966年)をご参照ください〕。
先に触れた谷口は、同じ箇所で続けて次のように書いています。
……人間の歴史の中で、「宗教」と呼ばれてきた、人間の追求また営みのその根本の意図は、人間が、自らの存在のその究極を追求し、その究極の次元において人間としての究極の生きかたを実現しようとするところにあったのだ、ということである。つまりひとがそれぞれに人間としての究極の人生態度を実現しようとすることこそ、本来の宗教的追求にほかならないのである。そして、さまざまの宗教的古典は、そのことを明瞭にもの語っているのである。
それゆえに、わたしはさまざまの成立宗教が実際にはどのような状況を呈していようと、そのことによって宗教本来の意図が人間にとってまったく不要になったとは決して見ないのであり、むしろ、宗教本来の意図に照らして、さまざまの成立宗教における宗教偽造の、あるいは宗教の形骸化の実体を明瞭にすべきだ、とわたしは考えるのである。
言いかえれば、さまざまの成立宗教におけるその宗教性の真偽は、その宗教集団の現実が、その集団に属する信徒のひとりひとりにたいして、真に人間としての究極の人生態度を実現させるために機能しているか否かにかかっている、ということなのである。また、ひとりのひとのその宗教性の真偽は、単に教団の規則や戒律にたいして忠実であるか否かとか、あるいは単にその教理や信条をかたく信じるか否か、ということにあるよりは、そのひとが、その実人生を人間としての究極の人生態度において生きているか否か、あるいはそのひとがその実人生を真に愛を動機として生きているか否か、にかかっているということなのである。(谷口前掲書、p.191〜192)
すなわち、谷口の言う《宗教本来の意図に照らして、さまざまの成立宗教における宗教偽造の、あるいは宗教の形骸化の実体を明瞭にす》るという意味においてキリスト教に対して批判的なアプローチをしたいと、このようにわたしは考えているのです。批判の意義についてはいずれきちんと書きますが、わたしは批判もまた立派な「対話」だと捉えています〔「有意義義な批判的対話のために」参照〕。
それに加えて、もちろんまだ先の課題としてではあるものの、本サイトは究極的には宗教対話をも意図しています。ただ、そのためには(有効にそれが展開できるかどうかは別にして)比較宗教・哲学的な立場を取ることが必要になります。その場合は、その前提としてわたしが「宗教」をどのように捉えているか詳しく説明する必要が必然的に出てきます。けれども、残念ながら今ここでそれをしている余裕がありません。そこで、わたしにとっての宗教の定義をとりあえずひと言で言えば、宗教とは「人間が人間になるために」あるとだけ言っておきましょう(いずれ詳しく書く必要があるでしょうが、ここで言うところの「人間」は、必ずしもヒューマニズムの範疇の人間ではなく、死や病と言った限界状況の中で人がそれまでの日常的な生き方を転換して以後いかに生きるか、その問いの中で開示される霊的な生命としての「本来の自己」を意味しています)。その意味でわたしが関心を持つのは、キリスト教に限らず、「その宗教がいかにその人間を真に人間たらしめる力を持つか否か」です。しかもその力(これを“働き”と言ってもよいでしょう)は、ひとりキリスト教だけが有しているものではありません(その意味でわたしは、福音はキリスト教の専売特許ではない、すべて真実の信仰は福音なのだと信じています)。それと同様に人間を非人間化せしめるような宗教があるとすれば、それがキリスト教であろうと仏教であろうと、あるいはどのような信仰であろうと、それは間違った宗教であり信仰なのです(ただし、わたしがそのような正しい信仰態度を生きていると言いたいわけではありません。全く正反対だというのが偽らざるところです)。
先にも触れたように、わたしはクリスチャンではなく、しかも他の宗教を信仰している者ですが〔補注3-1〕、もともとは幼稚園および小学校がプロテスタントで、中学二年から大学一年頃までは、さぼりながらも教会学校に通っていました。現在の信仰を高校生の時に得て以来しばらくは迷ったのですが、大学卒業と同時にクリスチャンになることは諦めました。けれども、キリスト教には今もとても興味をいだいています。要するにわたしはプロテスタントの神学に対して愛憎半ばする感情を長くいだいてきたわけですが、学生時代に遠藤文学に触れ、そのご縁から遠藤周作の友人でもある井上洋治神父の初期の著作に親しむことで、キリスト教全般に対する違和感がだいぶ薄れたことも事実です。それに加え、20数年前からは聖書学者の著作にもいくらか親しむようになり、キリスト教に対する違和感はさらに少なくなってゆきました。もっともキリスト教に対する違和感は、以前は「キリスト教はどうしてこんなにも排他的なのか?」という疑問としてこれを捉えていました。それが15年ほど前に、あることをキッカケに、どうやらその違和感は、プロテスタント神学をある意味で代表するカルヴィニズムの神学がどうしても肌に合わなかった、それが原因らしいということに気がつきました。そんなわけで、「わたしが何故キリスト教に帰依する――キリスト教ではこのような(仏教的な)表現は使わないかもしれませんが――ことができなかったのか?」という《問い》は、実はわたしにとっても永年のテーマだったのです。それがこのようなサイトをつくった理由ともなっています。
そういった意味で言えば、わたしがキリスト教について追求するその背後のテーマは、内村鑑三をもじって言えば、《余は“何故(なにゆえ)にして”基督信徒と成らざりし乎》〔内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫〕であると言ってもよいと思います。内村の場合は、自著の前書きで自らが述べているように、日記を中心とした《如何(いか)にして》を主とし、《何故(なにゆえ)》を排していますが、わたしの場合は、その追求はあくまでも《何故(なにゆえ)にして》であります(個人的なことは、この序文において「自己紹介」として多少書きましたが、これ以降は個人的な事柄は基本的に捨象して最小限の記述にとどめる予定です〔補注3-1〕)。
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