内容がいささか長くなりすぎたので、思いきって分割した。
わたしがキリスト教に対してどんな姿勢で批判的なアプローチを行なう所存か先に詳しく説明した。本頁ではそれとは別に、そもそも批判的アプローチとはどのようなものか、どうあるべきものか。拙いながら、以下にわたしなりの考えを書いておくことにした(一部に重複もあるが、ご容赦願いたい。また、今後必要に応じて加筆を行なう場合もある)。
※期せずして本頁も非常に長くなってしまいました。無理をして読んでもらうのも恐縮なので、お忙しい方は前頁の要約をご覧下さい。その上で、特にここは読んでいただきたいと思う箇所を朱色で強調しておきましたので、そこだけでも目をとおしていただけると幸甚です。
日本人はとかく批判を嫌い、古来「言挙げせざる」ことをよしとしてきた。そのような風習も手伝って、多くの人によって「批判はいけない」こととされている。この「批判するな」という主張――そのこと自体が立派な批判なのだが――は、いわゆるスピリチュアルリストに多く見られるものだが、カウンセラーなど臨床心理の専門家にもよく見かける主張である。クリスチャンにもそのような主張をする人は多くいるようだ。このような主張はとても良心的に聞こえるし、その発言の主も日頃はよい人なのだろう。ところが「批判するな」と主張する人に限って、何かの事情で自分がいざ相手を批判する段になると、批判と言うよりは単なる人格攻撃になりがちなのもよく見られるところである。その人たちにとっては、批判は単なる誹謗中傷といっしょなのだろう〔補注1-0-1〕。
批判を嫌うこういった多くの人々の姿を見る中で、最近わたしは「批判」という表現では誤解を受けやすいようだと感じるようになった。そして、批判という言葉から受ける印象がもしも世間一般の人とわたしとで違っているとすれば、わたしは「批判」という言葉で何を言いたいのか、いくらか反省してみた。以下、その考察の結果をなるべく詳しく展開してみたい。
わたしが批判ということについて特に意識して考えるようになったのは今から15年ほど前のことである。青野太潮『どう読むか、聖書』〔朝日選書、1994年1月〕という本を読んで批判的営為に関していろいろと学ばされたのもその頃のことだった。そのことに関して、大貫隆氏がたしか『隙間だらけの聖書――愛と想像力のことば(大貫隆奨励・講演集)』〔教文館、1993年6月〕という本の中で本書を書評していて、そこで、青野の言う「批判的」とは「主体的」という意味だと書いていたことが大変印象に残っている。実はその時はこの表現があまりピンと来なかったのだが、後でよくよく考えてみると、実はわたしは「批判的」の語をコミットメント(commitment)の意味合いで使っていたらしいことに思いいたった。さらに、その意味で言う「批判的」とはどうやら「主体的」と言いかえても間違いではないらしいと思うようになった。最近確認したところ、青野は同書の中で《「批判」とは、その言葉の本来の意味を問うていくこと、物ごとに対して否定的な見方をするなどということを意味するのでは全くなく、むしろ主体的に自らの判断をし、そこで問題になっていることがらをしっかりと識別していくことを意味しているのである》〔『どう読むか、聖書』、p.143〜144、ゴチックは引用者〕と書いている。これはわたしもそのとおりだと思うが、そうすると、「批判的」とは、「関わりのなさ(デタッチメント)」」〔補注1-1-1〕とは正反対の態度であるということになる。真に批判的な営みは、だから「対話的」アプローチでもあるということになるはずなのである〔コミットメントの意味に関する詳細な説明は、後述の「補足説明:コミットメントとその意味について」を参照のこと〕。
対話(議論や批判を含む、したがって会話とは違う)とは、本来自分が変わることも引き受けて行なわれるものであり、それは自他の生き方が問われる行為でもある。それに加えて、対話(dialog)は弁証法(dialektike)の語源となったソクラテスの問答法に由来するもので、(欧米においては)対話とは批判的な要素を本来内在させている言葉でもあるのだ〔中埜肇『弁証法――自由な思考のために』中公新書、1973年4月. 弁証法の語源に関してはp.14〜17参照。弁証法の起源は厳密にはソクラテス以前にまで遡るが、哲学用語としての弁証法という言葉が定着するのはプラトン以後のことである〕。かいつまんで言えば、対話とは自他の生き方を問いなおす批判的な営為なのである。
それに加えて、わたしも含め大概の人は、自分の考えや主張が全面的に正しいと無意識ながら考えているものである。そのような思い込みを補正するためにも、他者との対話や相手からの批判的アプローチないしチャレンジが必要となる〔早坂泰次郎『人間関係学序説――現象学的社会心理学手の展開』川島書店、1991年4月、p.31〜32.参照〕。それだから、相手からの異論をただそれだけで排除してしまうのは大変もったいない行為であると言えよう。批判を含む対話とは、相手に対する敬意と、話題となる対象ないし真理に対する謙虚さを必要条件とする知的かつ実存的なやりとりなのである。
時に過剰とも言ってよい批判に対する日本人の反応を見るにつけ、最近わたしはチャレンジ(challenge)という言葉に注目したらどうかと考えるようになった。これは「(相手から)チャレンジを受ける」というように使うのだが、翻訳でよく見かける表現である。そこで、わたしたちも他者から批判された時に「チャレンジされた」と捉えるようにすれば、ことさらに感情的にならずに相手の批判に対することができるのではないだろうか。少なくともわたしはこの表現にしっくりくるものを感じるが、それはチャレンジ(相手にぶつかってゆくこと、挑戦)という言葉に非難や攻撃といったニュアンスが少ないからかもしれない。
さらにわたしはアプローチという表現も何度か使ったが、アプローチとは対象への接近(法)ないし働きかけを意味する語で、それは「対象に迫る」ことを意味する言葉である。だからここで言う批判とは、批判的なアプローチ――批判的な形を介した対象への接近ないし働きかけの試み――以外のなにものでもないということになる。だとすれば、それはやはり攻撃ではなく、対話の試みなのである。
コミットおよびコミットメントは、わざわざ日本語にせずにそのまま使われることが多い。では、コミットメントとは一体どのような意味を持った言葉なのだろうか? 多少回り道だが、ここでその点について詳しく論じておきたいと思う。
コミットおよびコミットメントの語にどのような意味があるか、わたしはそれをどう捉えているのか、まずはその点についてなるべく詳しく説明しておこう。
コミット(commit)ないしコミットメント(commitment)の語〔補注1-4-1〕は、これが一般に人間関係の文脈で使われる場合は、自己投入とか対象に対する専心ないし傾倒、あるいは「(他者に対して)本気で関わる」ことなどさまざまに意訳される。わたしは最近それに加えて、身を入れる、ないし「(対象に対して)踏み込む」という意味合いでもこの言葉を使いたいと考えるようになった。コミットメントとは、このように他者との真剣な関わりを意味する言葉なのである。
それに関して、いつも思い出すある番組がある。それは、たしか90年代前半くらいに放送された教育TVの番組で、写真家の橋口譲二が若者たちに対して写真の撮り方をレクチャーするという内容のものだった。番組は、前半で写真を撮る心構えといったものを質疑応答などを通して若者たちに橋口が伝えながら、後半で上野動物公園に撮影に出かけるというものだった。橋口の語ることはその時はずいぶん心に響いたのだが、残念なことに前半の内容は覚えていない〔補注1-4-2〕。ただ後半の撮影会で、ある若者が動物の折の前にいた初老の夫婦を撮っているところで、「もっと近づいて撮りなさい」と橋口がアドバイスしているシーンをよく覚えている。人を撮る場合、近づいて撮ればたしかに失礼に思われるかもしれないし、それを考えてこちらがひるむかもしれない。それでも、相手に近づきなさい、へっぴり腰になってもよいから撮影対象にもっと近づきなさい。若者に対して、橋口はそんなアドバイスをしていた。有名な写真家でも、望遠レンズを使って遠くから人物を撮る人もいるようだが、橋口の写真の撮り方、撮影に対する姿勢といったものは、それとは正反対のものであると言える。写真集自体あまり見ないわたしは、橋口譲二という写真家がどんな写真を撮るのか、実際にはあまりよく知らない。けれども、人物を撮ることが多いとされる橋口は、写真家として撮影対象に対してコミットしているのだと言ってよいと思うのだ。この番組を見たからかどうかは不明ながら、写真撮影であろうが、何であろうが、対象に対してより近づく(対象にアプローチする)、対象に対して踏み込むこと、その姿勢をわたしはコミットメントだと捉えている。
次に、とても重要な観点として、「興味」という視点、すなわち「対象に対して興味を持つ」というアプローチ(対象に対する接近法)について触れておきたい。
同じような話題で恐縮だが、先に触れた写真家の橋口は、自分が街で人を撮る時に滅多に断わられたことがないという。橋口によれば、それは、彼がその写真を撮りたい相手に対して興味を持っていることを素直に表に出しているからだろうと言う〔橋口前掲書、p.292〕。写真家として彼が時に撮影の対象とする社会の底辺層にあるような人たちの場合は特にそうだが、その相手に対する軽蔑や、あるいは憐憫といった感情がこちら側にあると、その相手はそれを敏感に感じ取るものである。そういった話はよく聞くと思うが、そのような態度で相手に接しても、その相手から決してよい反応が返ってこないことは当たり前だと言ってよいだろう。ところが、そういった人と関わるには邪魔な夾雑物的な感情がなく、「あなたのことを知りたい」という純粋な興味で近づく橋口に人が心を開くのもまた当たり前だと言ってよいのである。
それに対して、このように「興味」ということを強調する視点に対して、逆にこの言葉を避けたいと思う人も多く見受けられる。これは興味という言葉に対するマイナスのイメージ(この場合の興味はせいぜいよくて「好奇心」のレベルを超えないし、時には小馬鹿にしたような「興味」すらある)が原因であると思う。そのため、ここは「興味」という言い方よりも、デール・カーネギーに倣って、《相手に対して誠実な関心を寄せる》〔『人を動かす』〕とでも言った方が誤解が少ないかもしれない。しかしながらわたしは、「関心」という表現にはどうも静的(スタティツク)な印象が強く、批判や対話においてコミットメントを強調する立場からは、(特に人間に対しては)「興味」という表現の方を好ましいと日頃から感じている。そのため、「対象(特に人間)に対して興味を持つ」と言った場合、わたしは「興味」という言葉を単なる「好奇心」としてではなく、「その相手のことをもっとよく知りたい」という強い気持ちというくらいの意味合いで使っている。その「知りたい」という気持ちは、だから、相手の業績や年齢、あるいは知識といった表面的なことばかりではなく、それらを剥ぎ取っても在る本来のその人らしさ、裸のその人そのものを知りたい、という気持ちである。さらに言えば、その「知りたい」という場合の「知」は、相手のことを「知識として所有したい」という「所有としての知」ではない。強いて言えば、それは対象を大切に思うところの知、すなわち「愛する知」なのである(かつて戦国時代に渡来したキリスト教の宣教師がキリスト教で言うところの愛を「御大切」と訳したとされる。さらに現代でも、たとえばマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」と述べたという)。古代ギリシアにさかのぼる哲学(philosophy=フィリア〔Philia:愛〕+ソフィア〔Sofia:知恵〕)の語源としての「愛-知」とはかなり趣(おもむき)が違うが、このような「知」もまた立派な「愛-知」なのだとわたしは思っている〔前頁で引用・紹介したエッセイ「批判はお嫌い?」においても、コミット(批判)することと愛については若干ながら触れている〕。むろんすべての人に対してそのような態度を取れるものではない。けれども、そのようなレベルでの「知りたい」という気持ち、そのようなアプローチ(対象に対する接近すること)の姿勢が根底にあって普段から人に対しているかどうか、といったことは問われてもよいのではないか。いや、その人の人間関係の姿勢・態度としてこれは問われるべき事柄であろう。わたしはそのように思っている。
最後に、コミットメントの語義からは多少逸脱するかもしれないが、ここで実存主義的な観点も多少加味した視点からコミットメントについて考察しておきたいと思う。
目の前の対象に対してコメット(自己投入)するということは、これはその対象に対して、あるいはその対象との主体的かつ実存的な関係の中に自己を投げ出すことであると言える。それは、他者との関係の中で個人的自己を超出ないし超越する行為でもあると言えよう。
かなり個人的な体験で恐縮だが、わたしも若いころは自分のことが嫌いで、自分を受容できていなかった。そんなわたしが、ある時ふとしたことからある異性に好意をいたき、従来のわたしとは違い、思い切ってその人に対してアプローチしたことがある。もっとも結果は不首尾ではあったものの、そのとき気がついたことは、相手に対して本気で関わっている時には「嫌っている自分」などといったものはどこにも存在しない、ということだった。これは何も恋愛にかぎらない。何事にせよ、本気で対象に対してコミットしている時には、近代人特有の思考過多・反省過多な自我などはどこかに消し飛んでしまうのであって、これをわたしはコミットメントに伴う自己超出なり自己超越と捉えている。たしかにわたしの体験などはごく些末で貧弱なものでしかないだろう。しかし、たとえそれがどんなに些細な行為であったとしても、「千里の道も一歩から」で、何事もその小さな一歩から始まる。相手に興味を持ってその相手に本気で近づこうとする行為(アプローチ)は、だから、そのまま自己を越える行為ともなりうるのである。それは実存哲学的な表現を使えば一種の「投企」であり、「賭」でもあると言えるのではないだろうか。
ある対象に対して強い興味をいだき、その相手のことを心底から知りたいと思ったとしよう。そのとき人は、具体的にどのようなアプローチをするかは別にして、必然的にその相手に対してコミットするだろう。その時その人はその相手の世界の中に必然的に踏み込むことになる。このとき個人的な世界の中でのみ生きていたその人は当然ながら自己を超越することになるが、一方の踏み込まれた当人の方も必然的にその相手との関係の中に引き込まれることになる。したがってコミットメントすること、コミットメントした先にあることは、お互いの関係の中でお互いが自己を超越しあう関係に生きるということなのである。それはまた、お互いが自己を実現しあう関係〔補注1-4-2〕であるとも言えよう。
たしかにこのような関係の取り方は、下手をすると傍若無人な印象を与えるし、暴力的ですらあると批判されるかもしれない。しかし、個人的な自己を超えて相手との関係の中に踏み込まないかぎり他者との真の出会いはないということも事実であって、そこは迷いながらもコミットしてゆく以外ないのだと思っている。そういった面は重々承知しながらも、自分にとってないがしろにできない対象に対してコミットすること、また、その対象に対して本気で関わる、関わろうとすること、そのことをわたしは本来「批判」のあるべき姿だと捉えているのである。
脚注1-4(2):
ここでいささか余談ながら、自己超出ないし自己超越ということについていくらかコメントしておきたいと思う。
上記で述べたような対象にコミットすることによって自己超出が起こったとき、個人的自己は全体の中に「解消」されるのではなく、全体の中で(他者とともに)真に自己を実現し表現することになるだろう〔補注1-4-3〕。少なくとも個人主義的な狭い自己は越えられて、そこに新しい世界が開けてくることになる。それは、単に現実を(時にその現実を無視して)「超える」ことではなく、現実の中で・現実に根ざして、なおかつその現実と自己をともに「越えてゆく」ことを意味している〔補説1-4-1:「超えてゆく」ということ〕。そして、この現実の中で・現実とともに、その現実を(人々とともに)超えてゆくアプローチこそが真に宗教的な姿勢であり態度だとわたしは理解しているのである。しかし、いくら宗教的(霊的=実存的)だからと言って、ここで言うところの「超越」は、自己を大いなるもの(超越者)の中に安易に「解消する」ことを必ずしも意味しない。それは、むろん滅私奉公的な主張やその種の全体主義的なアプローチをその根本から拒否し否定するものである〔補注1-4-3〕。
脚注1-4(3):
最後に、ひとつ指摘しておきたいことがある。
聖書、特に福音書を読めばわかると思うが、前頁で引用したわたしのエッセイ「批判はお嫌い?」にも書いたように、イエスの言動、そしてキリストの福音こそがここで言うところのコミットメントだということである。ここではこれ以上詳しく書けないが、世界に自己を捧げた(コミツトした)のは、一人イエスだけではない。パウロもまた周囲の世界に対し、そしてキリスト教信者となった人たちに向かって本気でコミットした。それは旧約の預言者たちにしても同様であったはずである〔補注1-4-4〕。聖書はその意味でその全編がコミットメント(それを批判精神と捉えることも可能である)に満ち満ちているのである(これだけではなかなかうまく言いたいことが伝わらないだろうと思うが、この問題に関しては後日詳論したいと考えている)。
脚注1-4(4):
以上コミットメントに関して長々と述べてきたが、コミットメントとは、その意味で極めて「主体的」な行為でもあると言えよう。当初は「批判的」の語を「主体的」と捉える視点に違和感を覚えたわたしだったが、コミットメントの語を上記のような意味合いで捉える時(これは当初、非自覚的にはこのように把握していたことなのだが、改めて文章として表わしてみて自分でもはっきりと認識することができたわたしの考えである)、「批判的である」とはまさに「主体的」な在り方だという確信をえるにいたった。そして、それこそがわたしにとって他者に対する宗教的(霊的=実存的)な関わりの仕方を表わす表現の一つなのである。実存のレベルで見られた人間の世界は宗教的=霊的な次元と深く切り結んでいるのであって、それを越えた存在などどこにもない。だからわたしは、他者に真剣に関わること(コミツトメント)もまた宗教的な概念として捉えているのである。
わたしは本節において、(特に人間関係に関する場面で)コミットメントという語が持つ意味について詳しく考察してきた。これらは一部にわたしの個人的な解釈も若干含まれている。特にわたしたちが当の対象にコミットした先の事態まで考慮に入れてこの語を考察してきたことは事実である。そのため、解釈としては逸脱と思われる箇所もいくらかあるかもしれないが、必ずしも間違ったことを述べたとは考えていない。
議論が少し専門的になった。話を元に戻そう。
矛盾した発言に聞こえるかもしれないが、わたしが批判の意義を強調したからといって、批判さえしていればよいと言っているわけではない。
たしかに今までわたしは批判肯定派を自任してきたし、批判に一律に否定的な態度を取る人たち(不思議なことに批判的な言動に対して逆に批判してくる人が目立つ)に対して、それこそ否定的な感想をいだいてきた。それは今でも基本的に変わらないのだが、ネット上での昨今のさまざまなやりとりなどを見て、最近その考えを多少改めたことも事実である。というのも、批判肯定派を含む多くの人たちが、(大概は無自覚であることが多いようだが)実際は批判を中傷ないし冷笑と混同していたり、あるいはその批判が単に自己目的化している様子をたびたび目の当たりにするに及んで、批判に対する考えを多少改めるようになったからに他ならない。<br>
いずれにせよ、自己目的化した批判ほど無意味なものはない。それは非生産的な行為だし、そんな態度による議論からは何か建設的な結果をもたらすことはないとわたしは固く信じている。それは対話の精神からはるかに逸脱した行為だと言ってよいであろう。
ここで念のために断わってておくが、わたしは誹謗中傷や冷笑(disrespec)を批判とは見なさない。よって、ここで考察の対象にしているのはあくまでも対話の要素を満たしたありうべき批判、コミットメントとしての批判である。つまりわたしは、批判を安易に誹謗中傷や攻撃的行為と捉える立場やその姿勢を強く批判しているのである。
最近「議論の最終目的は相手を論破することではない」とする意見を時に見かけるが、後述のとおり、それはまったくもって正しい主張である。然るに最近の議論(ディベート)においては、論破した上で、その相手を中傷ないし冷笑することをもって最終目的としているのではないかとすら思える言動が目につくようになった。この風潮には強く懸念を感じざるをえない。本頁における批判行為(誹謗中傷と混同された限りでの)に対するわたしの批判もその趣旨でなされたものなのである。
くりかえすが、わたしは批判そのものを批判しているのではない。批判を誹謗中傷と混同したり、あるいは批判を相手に対する攻撃と見なす立場、その限りでの批判を批判しているのである。それに加えて、批判肯定派を自認しながらも、一部で批判を上記のように考えて相手を冷笑し、あるいは相手を攻撃する手段として用いている人たちに対して、わたしはこれを強く批判するものである。自分が見下した、あるいは見下したい相手を冷笑したりする手段は批判でも何でもない。そんな動機でなされる行為は、批判などという名で呼ばれるにふさわしくない。それは何か高尚なものに見せかけた「攻撃」でしかないのである。少なくともそれは本頁で言うところの対話としての批判ではないと言わざるをえないであろう。もっとも、これらは当人も無自覚で行なっている場合も多いとは思うが、このような批判に対する誤解に対して、わたしはここで問題提起をしたいと考えている次第である。
わたしは先に、批判も対話的アプローチでありコミットメントだと捉えていると書いた。対話は自分が変わることも引き受けて行なわれる、要するに自他の生き方を問う実存的な行為であるとも書いた。それだから、自分の意見が変わることを怖れる人、あるいは拒否する人に対話ははじめから不可能なのである。さらに、対話的意図ないし何らかのコミットメント(対象に対して踏み込むこと、ないし相手に対して本気で関わる姿勢)もなしにその対象を一方的に非難ないし攻撃しているような人がもしもいるとしたら、それは批判というよりは「攻撃」と捉えた方がよい。その手の攻撃的な批判をする人は相手に対する敬意などおよそ持ち合わせていないことが大半だし、自分が間違う可能性、あるいは自己変容の可能性も拒否している人が多いように思う。しかも最近気がついたのだが、これは非論理的な人に見られるばかりでなく、意外なことに、論理的な人、あるいは論客と呼ばれるような人にも見かけられる態度でもあるようだ。
論理的であるか非論理的であるかに関係なく、日本人は批判を嫌うと言うよりは、対話そのものを嫌っている、ないしは苦手としているのではないか。しかもそれに加え、批判をする当事者が批判対象に対して敵対意識を持っている、あるいは持ってしまうことが意外と多いのではないだろうか。最近わたしはそのように思うようになった。しかしながら、自己変容の可能性に開かれていない対話、あるいは自己批判の契機を欠いた他者への一方的な、しかも敵対的意識をもっての批判は、結局は批判対象である相手と自分たちという「敵味方」図式をもたらすだけである。それは容易に自己の立場の絶対化を招来する結果となる。身内以外の人間に何か言われたら反射的に敵意をいだく、などというのもこのパターンだろう。たとえ意識的ではないにしても、相手に対して何らかの敵対感情を持っていては、建設的な批判はおろか、対話などもとより不可能である。相手(対象)に対する誠実さや他者に対する敬意がないところに対話的関係はおよそ成り立ちようがないのである。
もちろん対話は真剣な態度で行なわれなければならないし、その意味で批判もまた真剣勝負であることは論を俟たない。コミット(自己投入)を欠いた批判は無意味である。しかし、だからといって相手を無闇に攻撃してよいというわけではない。ところが、中にはそこを履き違えて、批判対象をただ徹底攻撃しているだけの人も多くいるようだ。「罪を憎んで人を憎まず」と言うが、批判とは本来、その人の思想なり行動に対してまずは疑問を呈する行為であって、その意味で行なう相手に対するチャレンジなのである。そのため、時にはその人の姿勢、ひいては生き方そのものが吟味の対象になることもあるだろうが、その時も相手の人格攻撃をしてしまったのでは意味がない。もしかして自分の行なう批判が単なる個人攻撃になっていないかどうか、常日頃から自らを省みることも必要だろう。対話の精神を欠いた一方的な批判は無意味だということをわれわれは忘れてはならない。
次に、本来生産的であるべき批判的アプローチ(対象へ迫ること、働きかけ)が不毛なものとならないためにも、批判を行なう側の「動機」――つまり、“どんな目的でその対象を批判しているのか”といった「反省」は極めて大切な視点となる。もっとも、その人の批判の意図が自分の考えないし立場をよりハッキリさせることのみであってもとりあえずは構わないと思うが、しかし、その人がいつまでもそこにとどまっていた場合はどうか。それでは、その批判行為が自己目的化してしまう危険性を否定できない。このような「自己肯定のためだけの他者否定」という姿勢に終始していては批判が一方通行にしかならない。このような一方的な論難と言うに等しいアプローチで他者との間に批判的ながら建設的な対話が生まれるかと言うと、これは土台無理な相談だと言わざるをえないだろう。大体そんな態度を取っておきながら相手が心を開いてくれることを期待する方がおかしいので、そんなやりとりに何らかの生産性を期待すること自体が無理というものなのである。それに、そのようなタイプの批判ないし否定しかしない人は、他者を自己の存在証明の道具としてしか考えていない可能性もある。それでは建設的な対話はおよそ不可能だし、対話を通した真の意味の自己変容も起こらないだろう。そのような陥穽から抜け出すためにも、わたしたちは常に他者に敬意を払い、批判の建設的かつ生産的な意義を追求し、対話的な批判を心懸けるべきなのである。
上記とも多少関連するが、中には自己証明のための批判のひとつの形として、自分の攻撃欲求や鬱憤を晴らすために、批判の対象(スケープゴート)を探してあれこれ批判をしているだけの人もいるかもしれない。けれども、そんな人に他者を批判する資格はないので、何らかのフラストレーションがたまっているのなら、スポーツなり趣味にいそしむなりして、よそで発散した方がよほど生産的だと思う。当人は、多くは無闇やたらなその批判行為が何か知的で高尚なことであるかのように考えているのかもれないが、実際は心理学で言うところの合理化を行なっているにすぎない(それでもフラストレーションの解放にはなるだろうから、当面の間はそれでも構わないかもしれないが、そんなことを続けていてはその人の精神にとっても決してよい影響はもたらさないだろう)。そのため、この手の人がたとえ自分たちと同じ対象を批判し、あるいは自分たちと同じような発言をしていたとしても、それだけをもって自分たちの「仲間」としてこれを遇してよいかとなると、それははなはだ疑問だと言わざるをえないのである。その人の批判の目的が、ただ当人の攻撃欲求を満足させたくてスケープゴート的に相手を批判しているだけなのか、あるいはその批判に何らかの建設的な意義があるのか。これを区別せず、同列にあつかうことはできないはずだ。然るに世間では、同じ対象を批判している、あるいは同じことを主張していているからといって、相手の人間性などお構いなしに、その人たちをそのまま安易に仲間扱いすることがよく行なわれている。そのような対応も時には必要なことがあるだろうから、わたたしもそれら(たとえばデモなどに見るような集団での意思表示といった行為)を一概に否定するつもりはない。けれども、他者に対する敵意や攻撃を主目的としたような人物を積極的に仲間として迎え入れた場合、批判対象となる相手はもちろん、それ以外の人たちからも毛嫌いされて、かえって自分たちの所期の目的を達成する障害となる危険性も否定できないと思うのだ。それは「徒党」であって、同志や盟友と呼べる存在ではない。たとえばリベラルな立場の人たちは、自分たち好みの発言をする人なら、たとえそれがどんな凶悪犯であろうが、あるいは暴力団の組長であろうが、彼らを無批判に受け入れてしまうようなところがあるが、これなどそのよい例だろう。
そういった次第で、その当人の動機を無視した安易な仲間扱いは、ひいては単なる「敵味方」図式をもたらし、自分たちに異論を差しはさむ人間に敵意をいだく、そんな危険性を否定できないと思うのだ。それは、身内(仲間)の言うことはあくまで正しく(間違っていても無意識に擁護し)、反対者ないし部外者の言うことはすべて間違っている――それどころか、相手が正しいことを言っても評価しない、などといった態度を招きかねない。相手を敵と味方とで分ける視点はこのような落とし穴があるのである。これはわたしも含め多くの人が経験していることであろう。それは人間の弱さでもあると思う。
実は、話は少し脱線するが、実は唯物弁証法に関する一般向けの本にたまたま目を通していて、「他者の否定を通してしか自己を証明できない」という上記の問題に気づかされた。その本は戦後間もない時期に出た一般向けの新書本なので仕方がない面もあるのだろうが、マルクス主義以外の考え方を批判するのはよいとして、そればかりが書き連ねてあるという感じなのだ。これは他の人が書いた弁証法入門書でもかつて感じたことなのだが、非常に観念的と言うか、教条的で独断的に感じるし、実際、説得力というものがまるで感じられない。このようなアプローチないし態度では批判が一方通行でしかないし、そんなやりとりに生産性を期待することは不可能である。「自己肯定のためだけの他者否定」が不毛であると思うゆえんである。自己が信奉するマルクスやレーニンの理論は絶対だという一種の「信仰」が彼らにはあるので(マルクス主義ばかりでなく、何らかのイデオロギーの信奉者はみな同様である)、自分たちとは違う立場の思想を受け入れる(ないしは、それらの思想を公正かつ客観的に検討する)心の余裕がないのだろう。それに加えて、はじめから彼らは自他の変容を伴う真の意味の対話的批判を行なう気持ちも持ち合わせていないのかもしれない。
これは何も共産主義陣営や何らかのイデオロギーの信奉者の間にばかりある問題ではない。たとえばキリスト教の入門的な書籍でも、キリスト教以外の思想や他宗教を批判しながらキリスト教の優位性を証明しようとするタイプのものがいくつもある(このような形でしか自己の信仰の優位性を証明できない人は、よほどその信仰に自信を持てない、信仰の弱い人なのだろうと最近は思うようになった)。そのようなアプローチがすべて無駄だとまでは言わないまでも、わたし自身はそれらの本を読んで説得力を感じられない。いや、それ以上に独りよがりな印象しか受けないのである。しかし、「それはあなたがキリスト教ないしイエス・キリストを受け入れていないからだ」という反論はここではあまり意味がない。たしかに他宗教などに対するこの手の批判的な言及は、すでにキリスト教の信仰を得ている人にはある程度有効かもしれない。しかし、その著者がその手のアプローチを採用した意図が、未信者にもキリスト教の有効性を証明したいと考えてのことだったとしたらどうだろうか。残念ながらその試みは成功していない――いや、かえって逆効果でしかないだろう。そのような一方的な論難と言うに等しいアプローチで他者(読者を含む)との間に批判的ながらも生産的な対話(=関係)が生まれるかと言うと、これは無理な相談だと思うのだ。
言うまでもなく、世の中には、人間として容認することのできない、非人間的としか言いようがない思想がいくらでもある。排外主義やヘイトスピーチ、人種差別発言などはまさにその好例だろうが、それらは対話と言うよりも対決する以外ない思想であり主張であると言えるかもしれない。ただ、たとえそのとおりだとしても、その思想がまだ海のものとも山のものともつかぬ場合、これを頭から拒否することはあまり建設的な態度とは言えないのではないだろうか。たとえその思想ないし主張が個人的にどうしても受け入れ難いものだったとしても、その思想なり主張についてこれをよく知るよう勉めるくらいのことはできるはずだからである。然るに、わたしを含め多くの人がそれをサボっているように思うのだ。その思想なり主張が単に気に入らないから、あるいは間違った思想ないし主張だから(「アカだから」「右翼だから」、あるいは「新興宗教だから」等々)と決めつけて、これを一方的に切り捨て、反論があってもまともに相手をしないことが多いのではないだろうか。これでは、それがたとえどんなに間違った思想および主張であっても、かえってこれに有効に対抗する機会を失してしまう危険もあるのではないかと思う。
相手との真摯な態度による対話もなく、身内だけで理解し合っているだけでは物事は動かない。これが多くリベラルな人たちが市民運動その他で敗北してきた要因のひとつなのではないかと思う。彼らの主張には個人的に共感するところも多いのだが、意外と一般人に受け入れられないばかりか、最近では毛嫌いされることも多いのは、どうもその辺に原因があるように思えてならない。彼らは仲間内でしか通じない「身内言語」には長けていても、一般人の心にまで訴えかえる「共通言語」を持っていないようだ。より正確に言えば、その「身内言語」自体が彼らの所属する世界では共通言語でもあるため(かつてはその「身内言語」が世間一般でもある程度通じた時期があるため、なおさら厄介なのである)、もっと広い世間ではそれがひとつの身内言語に過ぎないことに彼らは想いが及ばないのかもしれない。真実の他者、自分が話しかけるべき目前の相手が見えていないという点で、彼らの主張は所詮は独りよがりでしかない。実際、彼らの批判がほとんど「冷笑」で占められていて、お互いそのような皮肉や冷笑に対して身内だけで喝采を送り合っている、あるいは溜飲を下げているだけという、そんな図式が大半である。こんな態度に終始していては相手がこちらの主張に納得するわけはないが(そんなことは子どもにでもわかる!)、上で述べてきたほんとうの意味での対話がそこには存在しないのだから、それも当然の結果だろう。
それに対して、相手ないしその思想または主張を無闇に攻撃するのではなく、相手に対する敬意を失わずに真摯な態度で誠実にやりとりをすれば、少しはよい結果を生むのではないだろうか。むろん完全にはわかりあえないまでも、その相手が自分の考えを多少でも改める可能性がないとは言えない。たとえ相手は全然変わらなかったとしても――たぶんその方が圧倒的に多いだろうが――それでも対話の意義がないとは言いきれない。それというのも、その議論を見ていた人が自分の考えを修正し、あるいはその問題について自分の考えを深めるよすがにはなるかもしれないからだ。たとえ無駄と思っても、チャレンジする価値は否定できない。人間関係において、そして対話において決めつけは御法度なのである。
上記と関連するが、ここで念のために補足しておきたいことがある。それは、わたしは上で批判は誹謗中傷とは違うと散々指摘してきたが、それに加えて批判は非難や攻撃とも違うことを改めて指摘しておきたい、ということだ。これはわざわざ言うまでもないことかもしれないが、批判と非難は違うからと言って、それでも誹謗中傷と非難を同一視することはできない。
上記でも触れたように、人間として、あるいは個人としてどうしても容認できない主張がこの世には存在するし、それらの主張や思想には対決する以外に道がないことも多い。そのような場面を想定した場合、相手を批判する時にそれは往々にして非難という形を取る。このようなことも考慮に入れるとよくわかるが、批判と非難は時に区別しがたい側面が多いのである。
たしかに相手を一方的に非難ないし批判した場合、そこには対話的なやりとりは成立しにくいだろう。特に非難した相手からどんな反論があったとしても、ほとんどそれを顧みず、こちらも多少でも意見を変えるつもりがないに違いない。それは当然としても、相手とのやりとりから何らかの啓発を受けることも、そのつもりもないだろうと思われる。その意味で非難は「対話的」とは言いがたい。けれどもその非難が、相手の主張に対して異を唱えるために相手との関係にあえて割って入ること、すなわち相手の思想に対して「踏み込む」行為であった場合、それはその相手に対してコミットする行為だとも考えられる。その限りで、それもまた対話的な挑戦、アプローチであることには違いないのである。
このように批判と非難は区別しがたい面があるわけだが、これをわかりやすく言えば、批判と非難にはグレーゾーンが多いということになるだろう。現実ではこの両者は区別しにくい側面が少なくないかわけだが、それならばな、おさらこの両者を区別して理解しておいた方がよいだろうとわたしは思うのだ。
そんなわけでわたしは、どんな相手に対しても対話的な姿勢で、誠意を持って批判を行なうよう心懸けるべきだと思うのだ。相手を非難した場合は特にそうだが、その場合は相手からかなり攻撃的な反応が返ってくるだろう。それはこちらも、しかも最初に相手に対して攻撃的な言動(批判もそうだが、非難の場合は攻撃と捉えられても仕方がないし、やはりそれは相手にとっては攻撃なのである)をしたのだから当然であって、そのことに対して腹を立てるべきではない。そして、その相手からどんなに容認しづらい、あるいは攻撃的な反論が返されたとしても、上で青野も言うように、それらの異論や攻撃的な言動に対して、こちらはただ淡々と反論してゆけばよいだけのことなのである。
以上、批判する側の動機面に焦点を当てて考察してきたが、今度は批判する側の相手に対する態度、また、それに伴う議論ないし対話の姿勢といった側面に焦点を当てて考えてみたい。
前掲の著書の中で青野は、批判を非難と混同し、人間関係を台無しにする行為として批判的行為を頭から否定する心理臨床の専門家を批判して、《仮にこの批判が非難であったとしても、そのなかに傾聴すべき点はないかどうか吟味すべきなのであり、また、それが理不尽な主張であったのならば、それに冷静に反論してゆけばよいのであって、関係を絶ってしまってはならない》〔『どう読むか、聖書』、p.143〕と書いているが、これはわたしたちも心しなければならないことである。それだから、相手からの批判なり反論なりがたとえどんなに的外れなものであったとしても、その反論をもたらしたものが少なくとも自分の発言に由来するものであるならば、その批判には真摯に向き合うべきだとわたしは考えている。
わたしは先に対話とは自他変容の可能性を秘めて行なわれる行為だと書いた。人は一人では生きてゆけないと言われるが、厳密に言えば、一人で生きている人間などこの世に存在しない。われわれは相互的存在であって、その意味で人間は他者を通しての存在なのである〔レミ・C・クワント『人間と社会の現象学――方法論からの社会心理学――』早坂泰次郎監訳、勁草書房、1984年6月、特に第二章を参照〕。われわれは他者を通して、すなわち他者との真剣な関わり(コミットメント)の中で自己を知ってゆく存在である。そこに対話の意義がある。大体、自分のことは自分ではわからないもので、だからこそ他者と真剣に関わり、そのやりとりを通して自己を知る作業が必要となる。より深く自己を知り、自分の立場や考えをより明確にするためにも、批判を含む他者からのアプローチやチャレンジがわれわれにはぜひとも必要なのだ。したがって、何かチャレンジを受けたら、それを直ぐに拒否するのではなく、その批判の意味を考え、時間をかけて応答すべきである。それに対して、もしも他者からの反論や批判を拒否する姿勢で終始するとしたら(それは対話拒否の姿勢でもある)、先にも述べたように、その人はせっかくの自己変容のチャンスをみすみす逃していることになる。
それに加えて最近わたしが気になるのは、自分はあれこれ批判をしていながら、いざ相手から反論されたり何か言われたりすると、その途端に腹を立てるような人物がよく見られることである。あるいはかなりひどいことを相手に言っていながら、相手から少しでも反撃されたりすると、「心外だ」などと言って立腹するような手合いも見かけるが、これも同様である。いつも思うのだが、このような人物は、自分の発言に責任を負えない、あるいは自分の発言に対する覚悟がない人なのだろう〔後述「批判する者が持つべき責任と覚悟」参照〕。
わたしの経験上、この手の人はやりとりをしている最中にいきなり切れてしまうことが多いのだが、これはあまり論理的でない人に多く見られる反応である。だが、意外に思うかもしれないが、論客として自他共に認められているような人にも、このような攻撃的な行動を取る人が少なからずいることに最近気づかされた。批判を嫌うのは何も非論理的なタイプばかりでなく、実は意外と論の立つタイプの人の中にもその手の人がいるらしいのだ。それもかなり多いのではないかと思う。前者と違って後者のタイプは、周囲の人間も――場合によっては自分すらも――そのことに気がつくことは難しいように思うが(そのむずかしさは、われわれには「知的な人の方が人間的にも成熟しているはずだ」というあまり根拠のない思い込みがあることにも由来しているのではないかと思う)、このタイプはわかりにくいだけにかえって厄介なのかもしれない(※そのことに関して、最近権威主義に関する本を読んでいてはたと思い当たったことがある。それは彼らが権威主義的な性格の持ち主である可能性がかなり高いのではないかということだ。権威主義の問題は宗教信仰の問題を考える上でも極めて重要な論点なので、いずれ別項にて詳しく論ずる予定である)。そのような人は相手を論破することは得意だが、まさか自分が実際は(他者による)批判を嫌っているのだとは思いもよらないのだろう。彼らが好んで行なっている批判は、あくまで批判とは名ばかりの応酬にも近いやりとりであって、それに対して彼らが嫌っているのは、厳密に言えば対話なのであろう。頭がよいこともあってか、彼らは時間のかかる対話的なやりとりを嫌っているのかもしれないない〔補説3-2〕。
劇作家で演出家でもある平田オリザによると、日本のような均質社会(=和社会)ではない欧米社会では、どんな細かいことでも、共通認識を得るための議論が納得のゆくまで延々と行なわれる。ところが、多くの日本人はそのようなやりとりに耐えられず、おおよそ30分でキレてしまうという。このようにいきなり本論に入りたがる日本人を平田は「効率ばかり求める」と言うのだが〔脚注3-2-1〕、これは彼が演出家なるがゆえの発言だろう。というのも、平田氏が関わる演劇や国際的なワークショップといったものは、一般のビジネスと違って何をするにも初めてのことばかりで、すべてをゼロから創り上げてゆかざるをえないものが大半だろうからである。その反面、ある程度の共通認識がすでにできあがっている通常のビジネスにおける打ち合せでは、日本人はなかなか本論に入ろうとせず、延々と世間話をすることもよく知られている。欧米のビジネスマンには逆にこれがストレスになるわけだが、これを非効率と言わずして何と言おう。両者は一見矛盾して見えるが、しかし、そのどちらも日本人に特徴的な姿である。多少単純化した言い方ながら、これは、日本人が対話などに伴う心理的ストレスに極めて弱い自我をその長い歴史の中で育んできたことが原因ではないかと思う。だから、平田氏が経験しているような細かい議論が必要なシーンになると、日本人は今度は逆に「効率」を求めていきなり本論に入りたがるのだと考えられる。上記で触れたことにも関連するが、論客と言われるような頭のよい人たちもそこは同様だと思うのだ。ディベートならともかく、悠長な議論なり対話を彼らが嫌うのも、一見効率的に見えて、実は対話のストレスに耐えられないという心理的な弱さがそこに控えているがゆえのことなのかもしれない。→
次に上記と関連するが、先にわたしは知らないことを批判することの無意義であることを指摘した。しかし、上記のような相手を論破することしか考えていないような手合いが、たとえ自分のよく知悉する分野に関する批判行為を行なっていたとしても、そのやりとりは必ずしも有意義であるとは言えないのではないかと思う。というのも、もしもその人が相手を論破することだけを目的としてさまざまな知識をインプットしているのだとしたら、その行為にわたしはあまり意義を認められないからである。恥ずかしながら、実はわたしも「議論において優位に立つがために知識を増やしたい」という欲求にかられることが時にある。本を読むのが人よりもかなり遅いわたしは、そのような目的でのみの読書をしたことは幸いにしてないのだが、可能ならば読書を通してそのような知識のインプットを行なってみたいと思うことはよくある。しかしながら、これだけは肝に銘じておかなければならないが、勝ち負けだけを目的として得られた知識でもって自他の生を真に豊かにすることは望めない、ということである。それは、相手はおろか自己の人間的成長にも何ら資するところのない死んだ知識でしかないのである〔谷口隆之助『存在としての人間』I.P.R研究会、1974年3月〕。
くりかえすが、批判にしても何にしても、その行為の先にあるものが何もないのならば、その行為は無意味であるとしか言いようがない。相手を論破して、その後、何を・どうしたいのか。その視点が欠落しているならば、その議論および批判は不毛な結果をしかもたらさないだろう。
少なくとも日頃から批判の意義を主張し、なおかつ批判的行為を恒常的に行なっているのならば、相手からの反論は覚悟しなければならない――いや、それ以上に、そのような応答はこれを喜んで受け入れなければならないはずである。これは批判ばかりでなく、対話を行なおうとする者の責任であり覚悟であると言えよう。
別な箇所でも簡単に説明したとおり、責任は英語で言えばresponsibilityで、これはresponseとabilityとに分解される。要するに責任とは「応答可能性」、すなわち(相手に)応答する能力の有無を問う、そんな語なのである。それだから、他者からの批判(アプローチないしチャレンジ)に対して拒否の姿勢しか見せない、言いかえれば、そのアプローチなりチャレンジに対して真摯に応答する気がはじめからないならば、当然その人の批判は不毛なものとならざるをえない。散々やりとりをした結果そうなるのならば仕方がないが、最初から他者を切り捨てるような態度で批判行為を行なっているのならば、その批判に意義があるとは言いがたい。もしも「レベルの低い反論をしてくる相手とは数回のやりとりすら面倒だ」というのならば、その人は人前での一切の発言を止めて、誰もいない部屋で独り言でも呟いていればよいのである。(その手の人の中には、何か言ってくる相手に対して「叩く」などという表現を平気で使っている人も多く見受けられる――いや、ハッキリ言って、「叩く」などという言葉を常用している人は、どんな人であれ批判と誹謗中傷の区別がついていない人間だと判断して間違いないだろう。)
いずれにせよ、批判なり反論なりをして、それに対して誰かから何らかの応答があったならば、これに誠実に答える義務なり責任なりがこちら側にはあるのだということを忘れてはならない。時に勘違いをしている人がいるが、それがどんなに稚拙な反論だと思っても、こちら側はこれに誠実に応えてゆけばよいだけのことである。ただし、誤解のないようここで申し添えておくが、反論する側、批判をよこす側に何の責任もないなどと言っているのではない。相互存在としての人間にとって、対話と同様、責任もまた相互的なのである。(ただし、それが単なる言いがかりや明らかな攻撃でしかなかった場合は、そのような相手は単に無視すればよいだけのことである。それは当然のことで、わざわざ説明するまでもないのだが、中にはそんなこともわからない人もいるようなので、念のためにここで指摘しておくことにした。中には誰かから一度何か言われただけで、それを反射的に攻撃と判断する向きもかなり多いように見受けられるので、あえてくりかえし指摘している次第である。)
先に〔前頁および本頁第1項参照〕批判の意義を強調したのと正反対の主張に聞こえるかもしれないが、以上の理由で、自己目的化した批判はすべきではないし、批判をするならば自分が批判されることを忌避すべきではないとわたしは考えている。「批判をするな」というよく聞かれる批判にしても、この意味で言われるのならばそれは正しい主張だと思う。いずれにせよ、深く考えれば考えるほどその思索は深まり、次第に変化する。こうやってわたしも、10数年前と比べて徐々にその主張を変化させてきているわけである。
以上のような次第で、わたしが言う批判的アプローチは、上記で述べたような不毛な「攻撃」ではなく、あくまで創造的かつ建設的な行為としてこれを行なってゆきたいと考えている。
ここで少し観点を変えたい。
以上いろいろと述べてきたわけだが、本頁においてわたしは、批判のあり方にとどまらず、議論のあり方ないし対話の姿勢を終始問題にしてきたように思う。そのため、本来はここで正しい議論や対話のあり方について本格的に論ずるべきなのかもしれない。しかし、本頁もかなり長くなった上に、この問題については本格的に論じたいと考えているので、議論のあり方や対話の精神の問題についてはいずれ別頁で詳細に取り上げることにした(ここではその内容についてなるべく簡単に触れるにとどめ、別頁の内容が多少充実した段階で、前頁と同様に本節でその内容を要約的に記すことにしたい)。
なお、くりかえしになるが、わたしは何も論理的であることを否定したいわけではない。ましてや非論理的であることを是としているわけでもない。ここは誤解してほしくないのだが、結論を多少先取りして言えば、わたしはロジカル・シンキングを前提とするいわゆるディベート型の議論の一面性に疑問を呈しているのだ。
ディベートは通常、論争相手の説得なり論破を最終的な目標として行なわれる。その限りにおいて、ディベートにおいては、相手の存在は、無視とは言わないまでも、少なくとも前提されていないと言ってよい。何となればディベートにおいては、議論する相手がかけがえのない誰かである必要は必ずしもないのである。しかしながら、対話が自他の変容を賭して行なわれる行為である限り、対話(議論)によって、たとえ相手を説得ないし納得させることができなくても構わない、お互いに対話を重ねることに意味があるのだ。対話することによって、お互いが自他の価値観の違いに気づき、あるいはお互いが自分の考えをより明確にすることができたら、その時点で対話の目的はいちおう達成されたのである。ましてや対話においては論破など最初から目的にしていないし、相手を説得ないし納得させることも二次的な目的にすぎない。ディベートにおいてもその経緯(プロセス)は当然重視されるだろうが、目的はあくまで相手の論破にある。それに対して、対話においてはその過程(プロセス)にこそ意義があるのだ。議論はもとより批判も対話という視点で捉える立場、そして批判をコミットメントとして捉える立場からは、ディベート型の議論はそもそも前提にできないのである。議論にも対話型のそれもあれば、ディベート型のそれもある。本論の立場が前者にあることは言うまでもないので、そういった観点からわたしは本頁での議論を進めているのである。
まずここで誤解のなきよう申し添えておくが、わたしは何も批判行為あるいは反論に対する当事者が論理的であるとかないとか、あるいは論が立つとか立たないとかといったことを問題にしているわけではない。およそ論理的でない人に有効な批判的行為ができるとは思えないという人もいるかもしれないが、問題はそういうことでもない。わたしが言いたいことは、われわれ当事者にそもそも“対話の姿勢があるかどうか”が問われているのだということなのである。論理的であるかどうかはそこでは本来無関係である。わたしに関してもそれは同様で、上で述べた対話的な姿勢でキリスト教にアプローチするのでなければ、このサイトをアップした意味もあまりないと考えている。
本サイトにおいては、今のところはわたしが個人的に違和感を覚えるキリスト教の思想等に対してかなり一方的に批判的なアプローチを行なうことにならざるをえないが、それでも他者からの批判を拒否しているわけではない(今は掲示板を設けていないが、いずれもう少しサイトが充実してくれば、折を見て掲示板の設置を予定している。それまではメールで意見や批判をお受けしたい)。
批判を含む意義のある対話を行なうためにも、自分とは違う立場の思想や宗教に対する敬意ないし真摯な態度がお互いにより必要となる。そして、お互いに相手をよく知り、なおかつチャレンジし合う精神が何よりも要求される。至らない点があればこれを改める勇気も必要だろう。自己の信念が少しでも変わることを怖れては初めから対話は不可能なのである〔「『神を怖れよ』という福音」中の変化への怖れに関する議論を参照〕。
本頁において、わたしは今まで相手に対して敬意を持って接することの大切さを強調してきた。しかし、「敬意」という表現を多用しながらも、若干の疑問をいだいてていたことも事実である。というのは、敬意を持てないような相手に対しては議論など無意味だと感じる人も多くいるだろうからである。本頁冒頭でも書いたように、「批判という言葉では誤解を招くのではないか」と疑問を感じるようになったのと同じく、敬意という表現だけではわたしが言いたいことはうまく伝わらないのではないかとわたしも最近思うようになった。
わたしはこのことに関しては次のように考えている。簡単に言えば、それは、“何に対して敬意を払うか”の視点の違いであると言えると思うのだ。
わかりやすく言えば、敬意には、相手の相手の能力に対する敬意(「条件付き」の敬意)と相手の存在そのものに対する敬意(「無条件」の敬意)の二種類があるとわたしは思っている。もちろん後者の敬意こそが大切で、わたしにとってはそれこそが対話(批判を含む)の基本なのだ。また、能力に対する前者の敬意にしても、その前提に相手の存在そのものに対する後者の敬意があって初めてほんものの敬意になるのだろうし、それでこそ意義のある対話(批判も)――いや、それは対話に限られはしない――も成立するのだと思っている。甘いと言う人がいるかもしれないが、わたしはそれこそが対話の基本精神だと信じている。
何かが優れているから尊敬するということは、基本的には誰にでもできる。それは「条件付き」の敬意である。そういった尊敬できる何らかの能力(それがまだ潜在的な能力であったとしても)を有した相手に対してしか敬意を持たない、という人も多くいるだろう。けれども、こういった態度は結局、能力のない奴は評価しない、切り捨てる態度だと言ってよい。しかし、そのような態度では(自分より劣っていると判断した相手との間に)実りのある対話は成立しない。そのことをわたしたちは忘れてはならないと思うのだ。
そういった次第で、最近わたしは対話相手に対する敬意よりも先に、今後は「誠意」を重視するアプローチがよいのではないかと思うようになった。これもかなり形式的になる危険性はあるものの、まずは何事も丁寧にかつ誠実にやりとりをするようにすることを心懸けたらよいのではないかと思う。
当然ながら真剣な議論は激しい応酬を伴う。しかし、そのような激しいやりとりの中でも、相手に対する最低限の礼儀を忘れず、誠意をもって相手に対することは決してむずかしい話ではない。それができないと言う人がもしもいるとしたら、その人には議論そのものがもともと無理なのだと判断して間違いないだろう(もっとも上でも指摘したように、形式主義的な議論のノウハウを駆使すればその手の人にも議論は可能になるだろうが、そのような人が行なう議論が生産的かつ創造的であるとはわたしには思えない)。
ただし、ここで注意しなければならないのは、多くの人が陥りがちな過ちとして、(ビジネス書などを読んで)形式主義的に形だけの誠意を示すというアプローチを取る人が多い、ということである。対話ないし批判をコミットメントとして捉える視点からは、これは本来許されないことである。上で書いたことと矛盾しているように見えるかもしれないが、それでも相手に対して攻撃的な態度に終始するよりは、多少形式的でも良識を弁えた誠意ある態度で接することは必ずしも間違っているとは言えないのではないかと思う。
以上いろいろと書いてきたが、人間存在に対する敬意を誰に対しても持てるようになるためにも、わたしたちは対象となる相手に対して心から興味を持って接し、あるいはその相手に対して誠実な関心を寄せることに徹することが肝要なのである。わたしはそのように思っている。
それに加えて、どうしても忘れてはならない視点は、“その相手に対して関心ないし興味を持てるかどうか”だという視点である。
先にも触れた写真家の橋口譲二が言うように〔「(1-4)補論:コミットメントとその意味について」参照〕、社会の底辺にいるような人に接近する場合は特にそうだが、彼らに対して憐憫などの感情を持っていては、その相手から拒否されることの方が多いという。大体そんな態度で相手に接しておいて、相手からよい反応が返ってこないことは理の当然である。
これは議論その他でも同じことである。その場合、いくら相手に興味(これは悪い意味のそれ)があるからと言って、「お前、なんでこんな馬鹿なことをするんだ?」といった調子で、その相手を小馬鹿にするような態度で接しても、ろくな反応が帰ってこないだろうことは誰にもわかるはずだ(不思議なことながら当人にはその気がないことも多いようだが、相手は敏感に相手の感情を察知するものである。そのような態度は、よくて好奇心と言えるかもしれないが、「ほんとうにその相手のことを知りたい」という誠意ある姿勢とは決して言えないだろう)。そんな態度で相手に問いかけても、その相手はその人を無視するか、場合によっては攻撃的な態度を取るに違いない。ところが、そのような態度で相手に接しておきながら、相手から不快な反応を返されて憤慨するというような人が意外と多い印象を受ける。原因は自分にあるのもかかわらず、そういったことをまるで弁えていない人が最近多くなったように思う。そして、このような態度で普段から人に接しているような人が相手を批判した場合、その人が「事実誤認の指摘をしただけだ」「攻撃したわけではない」といくら言い張ったところで、それは相手からすれば攻撃とか捉えられないのは当然だろう。当人がどう言おうと、あるいはどう思おうと、それは事実攻撃なのである。誰だって小馬鹿にされれば不愉快に感じるのは当たり前である。それが秘めた軽蔑の感情だとしても、人によってはそれを敏感に感じ取り、それに対して正確な反応しているのだけである可能性も高い。論理的であることを自認しながら、その程度のこともわからない人がもしもいるとすれば、その人は真に論理的だとは言えないのではないだろうか。
昨今は何事においても効率が優先される時代である。それは議論においても同じであるようだ。いわゆるロジカル・シンキングやそれに伴うディベートなどにもその傾向がよく現われていると思う。
最近は世間でもロジカル・シンキングが流行っているし、ひと頃に比べディベートやディベート教育も盛んに行なわれるようになった。当然それらについての解説本も多くあるわけだが、それらは各種の便利なツール(フレームワーク)を教授するものが多いようだ。つまり、そういったタイプのロジカル・シンキングは、かなり形式主義的に論理性を担保させるタイプのものであると言えよう。ところが、わたしも含め世の一般人は論理的思考に対する訓練を受けていない人が大半である。そういった人を相手に論理的思考に基づいただけの、その意味での形式的な議論をしても、あまりよい結果を生まないのではないかと思うのだ。そういった人たちの中には、ロジカル・シンキングのノウハウにしたがって明らかに正しい主張を行なっているにもかかわらず、必ずしも相手が説得されないことに苛立ちを隠せない人も多い。それはわたしも同感ではあるのだが、彼らはその理由を、その相手が論理的思考の訓練を受けていないことに求めることが多いように見受けられる。よく考えてみると、それは、非論理的な人とはまともな議論など不可能だと言っているに等しいのだが、しかし、果たしてそれは正しい見解だろうか? それがまったく根拠のない主張だとはわたしも思わないが、そういった主張に対してはどこか違和感が残ることも事実である。少なくともそこには論理的思考の訓練を受けていない他者に対する蔑視感情があることは事実だろう。相手が説得されないのは、はたして相手が論理的でないからだけだろうか? 縁あって本論考を読んでいる人にも、その辺のことをよくよく考えてほしいと思うのだ。
誰でも知っていることだろうが、論理的でありさえすれば誰もがその人の主張を受け入れるとは限らない。それが人間というもので、相手を説得するには、相手の感情に訴えたり、あるいは何らかの利害に訴えたり、その相手に対していろいろとアプローチするのは当然である。それができないというのなら、当人にも何らかの問題があると考えてもよいのではないだろうか。いや、これは少し言いすぎだが、少なくとも、その相手を説得するための努力をする意思がその人にないことだけは事実だろう。批判や対話をコミットメント(相手に対して踏み込むこと)と捉える立場からは、そのような姿勢は決して容認できるものではない。それは、目の前の当の相手に対して真剣に対していない証拠でもあるからだ。
言うまでもないことだが、論理的であることが間違っているなどというようなことが言いたいわけではない。非論理的であるよりも論理的な思考ができる方がはるかにすぐれている。それは紛れもない事実である。それでは、論理的であることを自認していいる人にとっての問題点は何なのだろうか? わたしは何を問題視しているのか?
わたしは、そういった人たちの問題点は、自分が論理的に思考するのはよいのだが、相手にも自分と同様に論理的であることを求めるところにあるのではないかと思っている。大体、そのように都合よく論理的な反応をしてくれる人ばかりがこの世には存在しているわけではないのだから、その望みはあまり現実的だとは言えない。もしかすると彼らは、議論をしている目の前の他者の存在を捨象して、議論を自分の脳内で行なう事柄であるかのような錯覚に陥っているのかもしれない。そのような自己完結した議論は、しかし教室内などの形式的なディベートの世界の中だけにしか存在しない。そのような非現実的な期待、あるいはそのような幻想を(知らず知らずのうちにせよ)持ってしまうこと自体が、現実を知らない・知ろうとしないという意味で論理的でないとすら言えるかもしれない。
そのような自分の思いどおりにはならないことが当たり前の現実世界の中で何らかの議論を行なった場合どうなるだろうか? これは誰しも経験していることだと思うが、その場合、議論をしている相手が自分の想像を超えた、あるいは自分の想定する論理的な範疇を超えた反応をしてきて難儀するといったこともかなりな頻度で起こるに違いない。論理的思考に慣れすぎた人にとっては、そういった相手は対処することにかなり難儀するだろうことは想像に難くない。その結果として、こちらから議論を投げ出してしまうこともあるだろう。しかし、その相手が暴言を吐いたりしたわけでもないのに、こちらが一方的に議論を投げ出すとすれば、それは真の意味で論理的な態度だとは言えないのではないかとわたしは思うのだ。
何度もくりかえし書いているように、人間は一人で生きているわけではなく、そこには相手がいるのである。しかもその相手は自分とはすべての面で違う存在なのだということがこの世の現実なのだから、その相手が自分の思いどおりの反応を示してくれないことは当たり前のことなのである。他者は自分にとって都合のよい反応をしてくれる存在ではない。いや、自分にとって都合の悪い反応をするのが本来の他者なのである。先にも述べたことだが、そういった他者がいてこそ対話(議論)が成り立つのであって、その意味で議論や対話は一人ではできないのだ(ただし、自己内対話ということもよく言われるが、その場合も自己が自己を他者として自己内で対話を行なっているのであって、それは他者の存在そのものが経験的な事実に先立つ事柄としてもともと前提とされているからこそ行なわれるものなのである)。論理的であることを自認する一部の人は、そのような自分にとって都合の悪い反応をする相手に対して当然敬意など払わないだろうし、切って捨てることも多いに違いない。相手が誠意を持って議論に臨んでいるか、あるいは何らかの正当な理由があって反論なり異論をはさんできたのだとしても、そんなことは無視をする人も多いだろう。これは、その人が(自分が規準とする)論理性の水準を全うしていないからと言って直ちに切り捨てる人が多いということでもある。それでは実りある対話は不可能だ。そのような根気のいる作業に耐えられない人にとっては、本来の意味における対話や議論はもともと難儀な存在だったのではないかということは先に指摘した〔「補説3-2-1:対話のストレスに耐えられない日本人」参照〕。そして、そのような本来あまり論理的でなかった人でもスムーズに議論を行えるようになるためのノウハウが、ロジカル・シンキングやそれに伴うディベートだったのではないかとわたしは見ているのである。
それに加え、このような形式ばかりを重視した議論とそれによる問題の把握では、真の現実を知ることがむずかしいのではないかと思う。というのも、ここでは詳しく扱う余裕がないが〔これについては、機会があれば次頁作成時に詳細に言及する予定〕、先にも簡単に指摘したように形式主義的な論理によって語られた世界というものは、矛盾に満ちた現実を捨象し整理したものでしかないからである。それだから、自分がいくらロジカル・シンキングに長けているからと言って、あまりに形式的な議論に固執すると、そのような訓練を受けていない、あるいはそれをあまり得手としない相手がいだく違和感や疑問を切り捨ててしまうことになる。生産的たりえたかもしれないやりとりの可能性がその段階で消えてしまうのである。
たしかに論理的でない人には効率的な議論はできないかもしれない。けれども、それが何だと言うのだ。相手が多少非論理的でも、こちらもできる範囲で議論に応じればよいだけの話ではないか。そうすることでお互いに何らかの実りある対話ができるとわたしは信じている。相手が最初から攻撃的であるとか、いきなり暴言を吐いてきたというのならば、切って捨てることも仕方がない。しかしながら、その相手がきちんとした態度で異論なり反論をしてきたのであれば、その相手が論理的であるかないかは、議論や対話において本質的には何の関係もないはずなのである。
なお、誤解のないようここでも指摘しておくが、暴言を吐くような人はたしかに論外である。ここで論理的でないという表現でイメージしているのはその手の人物ではない。効率的な議論のノウハウを知らず、あるいは知っていても使えずに、話があちこち飛んだり、時にすっとんきょうなことを言って反論してきたりすることはあっても、悪意まではない人のことを含めて考えている。ところが、その程度の人との議論すら、相手が自分の言うことを納得しないだけで論理的でないと切り捨てる人がいるとしたら、その人の議論に対する姿勢はどこか問題があると言えるのではないだろうか。しかも、それだけならまだしも、相手に悪意まであると決めつける人がもしもいるとしたら、わたしはその人の方が実質的な意味ではかえって非論理的ではないかと思うのだ。
くりかえすが、たしかに非論理的な人と議論したりすると、予想外の反論が帰ってきたりしてストレスを感じることが多い。それは事実である。それに、論理的な訓練を受けていない人との間では効率的な議論は成立しにくいということはたしかに事実かもしれない。議論があちこちに飛んだりして、議論も錯綜しがちになりがちになることも多いだろう。そのため、そういった人と時間をかけてやりとりをすることは無駄に思う人もいるに違いない。けれども、このような非効率とも見える時間のかかるやりとりは決して無意味ではないとわたしは思うのだ。それを無駄だとして切り捨ててしまうとしたら、それは傲慢としか言いようがない。少なくとも誠意のある態度とは言えないだろう。ちなみに、欲求の五段階説で知られる心理学者アブラハム・マスローは、本来曖昧で矛盾を孕んだ人間存在をその現実のままに記述する態度を真に科学的な態度だとし、そのためには科学者の側に《曖昧さに耐える勇気》が必要だと述べたと言う〔脚注4-5-1〕。本来曖昧なものを曖昧なままにしておくストレスに耐えられず、効率だけを求めて拙速に白黒をつけたがる態度は、やはり対話の精神からかけ離れたものであると言わざるをえない。逆説的だが、そのような態度はやはり真に論理的で理性的な態度とも言えないのではないだろうか。昨今そこのところを履き違えている人が大勢いるように思う。これはわたしたちがくれぐれも注意しなければいけない点だと思う。
くり返すまでもないが、わたしはここでの議論を、いわゆる議論のノウハウとしてではなく、その精神において、すなわち批判も対話のひとつの形として捉え、この視点からのみ論じてきた。わたしが対話をどのようなものだと考えているかは、この文章の中の説明でもとりあえずじゅうぶん明らかだろう。それでもこの文章を書いているうちに、批判や議論の姿勢ばかりでなく、対話の精神についても考察を深めることは大変意義があることだと思うようになった。さすがに今回はこれ以上書けないが、いずれ折を見て対話の精神ないし意義についても書いてみたいと考えている。その代わり言っては何だが、ネット上のやりとりも含めた議論のあるべき姿について日頃考えていることをコメントしてこの頁を終わりとしたい。
わたしがここで批判および議論の精神として念頭においているのは、実はパソコン通信時代の議論のあり方である。現在その精神を強く引いていると思われるのは、誰もが執筆に参加できるフリーの百科事典Wikipediaの編集精神とそこで行なわれる議論であろう(一般論としても参考になるWikipedia上の方針としては、たとえば「善意にとる」とか「礼儀を忘れない」「個人攻撃はしない」といった項目がある)。あのように侃々諤々(かんかんがくがく)と些細なことにまで熱くなって議論する作法は昨今はもう流行らないと思われる人がいるかもしれない。けれども、逆にこのような精神を忘れつつあることが、ネットにおいて昔以上に要らぬ炎上をもたらしている原因であると考えることもできるのではないか。わたしはそのように感じている。
このような変化の要因としてまず考えられるのは、インターネットの接続環境の変化が大きいと思われる。かつてのようなダイヤルアップから常時接続が当たり前となり、しかもスマートフォンの利用者がPC利用者を上回るようになった。パソコン通信時代の会議室のやりとり等では、掲示板への書込みに対する返信に1日程度かかることは普通だったし、そのような時間的にも余裕のある中で、書込みの内容もだいぶ吟味した上で議論が行なわれていた。それに対して近年は、メール等の返信も含め、当時に比べて何事もスピードが要求されるようになった。そんな通信環境の変化の中で、ネット空間においてギスギスしたやりとりが目立つようになってきたようにも思うのだ。それに加えて、ひと頃の会議室形式の掲示板(BBS=
Bulletin Board System)が中心だった頃と違って、Twitterに代表される短文投稿サイトが主流になったこともそこに大きく与っているように思う。2chもそうだが、こちらは長文投稿もそれなりに可能ながら、その大半は短文の言い捨てである。Twitterにしても、直接相手に言わずに、いわゆる空中リプライを多用して中傷的な発言をする人が非常に多く見られるが、当の相手がその発言を目にすることを予想すらしないのだろうか。これではそもそも対話が成り立つわけがないので、その議論が建設的なものになることを期待する方がもともとおかしいのである。短文投稿サイトに限らず、こういったことが当たり前に行なわれているところに、非‐対話的なやりとりを指向する現代の傾向が特徴的に表われているようにわたしには見える。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、よりよき対話を望む者としては、そのような昨今の風潮がとても残念に思えてならないのである(時代の変化は何もIT環境の変化にとどまらず、この問題を論じるには、その他さまざまな側面を考慮しなければならないが、紙幅の関係もあって、ここではIT環境の変化に限定して言及した)。
演出家の平田オリザは、ある本の中で、《対話のない社会に、討論(ディベート)だけを持ち込むと、様々な混乱を招く。》〔『対話のレッスン』小学館、2001年10月、p.200〕と書いているが、これはわたしも同感である。本頁でいろいろと述べてきたこともこのことに尽きると言ってもよいだろう。誤解を恐れずに言えば、今わたしたちに必要なのは、議論のノウハウでもなければ、論理的思考の能力ですらない。わたしたちにいま必要とされているのは対話の姿勢、対話の精神なのである。
苦言や異論に一切耳を傾けず、直ぐに切れてしまうといった心性(メンタリティー)では生産的な議論はもとより不可能だ。Wikipedia上の議論にしても、たしかに炎上もそこそこ多いし、時間ばかりかかって非効率極まりないかもしれない。しかし、効率ばかりを求めて、時間のかかるやりとりを必要以上に嫌う姿勢は、一時的にはよいだろうが、結局は対話の精神を蝕(むしば)むことにつながるのではないか。そして、このような時間のかかるやりとりを忌避し、あるいは効率ばかり求める態度が、かえって生産的な議論を生まない要因を育んでいるのではないかとわたしは思うのだ。上でも書いたように、一見非効率とも見える時間のかかるやりとりも決して無意味とばかりは言いきれない。《曖昧さに耐える勇気》(マスロー)を持たず、いや持ちえず、効率だけを求める態度は、やはり対話の精神から遠いと言わざるをえない。くりかえすが、いわゆる効率的なディベートばかりが議論の方法ではない。議論(ディベート)のノウハウ以上に大切なことは、その人が誠意を持って相手とやりとりをする気持ちがあるかどうか、そこに対話の姿勢があるか否かなのである。
先に紹介した写真家の橋口譲二は、インドや東京でのワークショップの記録をまとめた本のあとがきで、《写真を撮り、アルバムを作り、展示もするという作業は二次的なことで、その途中のプロセス、すなわち「対話」にこそ意味があるのだということを、僕は彼らとの関係の中で知り、学んだ。はじめからそのことを自覚していたわけではなかったが、これまで作家活動の中で培ってきたものが、途中、すなわち関係の持ち方をはしょってはいけないということを、本能的に体が自覚していたのだと思う。》〔前掲『対話の教室―あなたは今、どこにいますか?―』p.378 傍点引用者〕と述べている。
橋口が言うことにはとても共感できる。わたしが議論や対話のあるべき姿として言いたかったこと、上でくりかえし主張してきたことは、要するにこういうことだったのだ。
わたしは上で、批判もまた対話であるという前提で語ってきたが、批判も議論の形を取るかぎり、それはやはり対話なのである。それは、単なる高率ばかりを優先したロジカル・シンキングやそれを下にしたディベートとは、形は似ているとしても、本来異質なものですらある。そのやりとりがいくら非効率で時間ばかりかかるとしても、わたしたちは決してそのプロセスをおろそかにしてはいけないのだ。
さらに、これも先にも触れた平田オリザは、日本語や対話のあるべき姿について書かれた本の中で、《私は学生たちに演劇を教えるときには、方法ではなく態度を身につけるのだ》と教えているという〔前掲『対話のレッスン』 p.211〕。平田は、対話とはお互いに異質なコンテクストを持つ他人同士がその価値観をすりあわせる行為だと言う。そして、《対話とは、他者との異なった価値観の摺り合わせだ。そしてその摺り合わせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、あるいはさらにその変化を喜びにさえ感じることが対話の基本的な態度である。》と述べる〔同書、p.215〕。
この平田の言うことにもわたしは共感を覚える。
わたしもまた、対話ないし議論とは、お互いに違う価値観を持つ者同士が、そのお互いの違いをよく把握し、なおかつお互いに自分の意見をいくらか変化させながら、お互いを理解する(必ずしも同意や納得が目的ではない)やりとりだと思う。そのプロセスに耐えられず、切れてしまう人が多いのは残念だが、賽の河原の石積みにも似たそのプロセスをはしょらずに続けないかぎり、対話(議論)が実りあるものになることは決してないだろう。平田は、対話は「時にお互いが理解し合えないほどに違うこともある」という気づきから始まると言う。対話とはそれだから、それでもなおその相手を理解しようという強い意志とその相手に対する興味があって初めて成り立つ行為であると言えよう。
本頁も期せずして長くなってしまったが、ここで最後に橋口の言葉を引いて終わりとしたい。
《 人と人が感情をぶつけあう。このことを言葉に置き換えると、「対話」ということになるのではないだろうか? 知力、体力、気力、思い、願い、祈りが折りあい、初めて対話は成立する。》〔橋口前掲書、p.377〕