本論に入る前に、誤解を避ける意味でも、ここでいくつか説明しておきたいことがある。
本頁の内容は当初「怖れに根ざした信仰」の論考内に組み込んでいたものだが、文章も長く、本論からもかなり逸脱する内容であったため、新ドメイン移行に伴い、いったん序論部の補説として独立させた後、内容を加筆・改編の上、序文の補説的頁として独立させることにした。ただ本頁で扱った内容のうち批判の意義に関する文章は本サイトの全体にも関わる内容であるため、本来はもう少し徹底的に論じたいテーマである。そのため、最近さらに内容を改変の上、その頁を独立の論考としてアップした。
わたしは本サイトのタイトルを「聖書信仰を問いなおす」(ただし、これはあくまで暫定的なサイト・タイトルであり、適切なサイト・タイトルが決まり次第変更したいと考えている)としたが、だからといって必ずしも「聖書信仰」そのものを否定したいわけではない。キリスト教やその信仰を否定したいわけでもない。誤解する人がいるかもしれないので、まずここで詳しく説明をしておくことにする。
まず第一に、キリスト教に対して批判的な考察をするからといって、わたしは何もキリスト教一般を――キリスト教に違和感をいだく多くの非キリスト教徒がするような意味では〔補説1-1〕)――攻撃するつもりはない。いくら批判的な見解を持っているからといって、福音派や聖霊派の教会はすべて間違っているなどと言うつもりはないし、そんなことは考えてもいない。福音派の教会でよい教会がたくさんあることも知っている。実際わたしの知人にも、今は付き合いがないものの、福音派を含む保守的なキリスト教会の教会員の方が何人もいるが、その多くは人間的にも立派な方だった。問題は、ゆきすぎた福音主義とその立場による聖書解釈が、結果的にキリストの精神からの逸脱、たとえば「信仰による人間疎外」〔詳しくは「聖書に名を借りた支配」を参照〕といった事態を生み出しかねない、ということである(むろんこれはリベラルな立場の教会に対しても言えることである)。そのような問題を福音主義的なキリスト教会が生み出しやすいということは」〔詳しくは、上記「聖書に名を借りた支配」を参照〕、しかし、ひとえに福音派や聖霊派の教会だけの問題ではない。それは、禁欲的なピューリタニズムを中心としたプロテスタント教会が内にひそめていた問題(それは古代教会以来、カトリック教会内においても内に孕まれていた問題でもあると言えよう)が、現代において――特に福音主義的なキリスト教会において――如実にその姿を現わしつつある、ということなのである。わたしはそのように考えている(プロテスタンティズムが孕む問題点についての考察は以後の各論において論じる予定である)。
きちんと読んだことはないのだが、梅原猛氏の主張などがその代表的なものだろうと思う。それらの中には耳を傾けるべき主張も多々あると思うが、かなりひどいものもあるようだ(もっともそれらにしても仏教系の知識人などがイスラムやキリスト教などの一神教に対してどのような偏見を持っているかの事例としては多少参考になるかもしれない)。これらは、大概が一神教を「排他的」ないし「非寛容」として一方的にこれを「非難」(批判というレベルには達していない論難が多いため、この表現を用いる)あるいは「断罪」するのが通例である(昔のわたしも多少それに近かったことをここに白状する)。ただわたしは、それらの一神教批判がすべて間違っているとは思わないものの、彼らの批判は仏教なり神道なりに対する自己批判・自己反省は一切ないことが多いことも事実である。残念ながらここでその問題を詳しく論ずることはできないが、わたしの批判はそのような一方的なものではない――少なくともそのような批判は行なわないよう日頃から心がけているつもりである。
一方で先の主張に対して一見矛盾した発言に聞こえるかもしれないが、この場を借りて、どうしてもコメントしておきたいことがある。ここで本格的に論ずるべき事柄ではないかもしれないが、わたしには、これら多神教信者側からする一神教批判に対するクリスチャン側からの「非難」にも疑問を感じる点が少なからずある、ということである。
そもそも多神教信者からする一方的な一神教批判にしても、これにただ腹を立てるだけで、その一方で自分たちが今まで二千年近くにわたって他宗教をこれまた一方的に非難し、「異教徒は地獄に堕ちる」などと言い募り(特にカトリック教会および一部のプロテスタント教団から「今は違う」という反論があるかもしれないが、それも第二バチカン公会議以降、たかだか50年程度の変化でしかないことを忘れてはいけない)、日本においては仏壇などを焼いてきた「過去」を失念しているとしたらどうか。これはかなり問題だと言わざるをえないだろう。「火のない所に煙は立たない」と言われるように、彼ら多神教徒のキリスト教に対する非難にしても、もともとは自分たちが散々他宗教を誹謗してきたことへの反発から来ているという側面も見逃すことはできないのである。これはわたし自身がそうだったからはっきりとわかる。そのことを忘れている、あるいは知ろうともしない(いや本当に知らないのかもしれないが)ならば、それはいささか身勝手にすぎはしないだろうか。もちろん仏教を代表とする日本の宗教の側にもキリスト教に対する一方的な攻撃や時には迫害もあったことは事実だし、これはわれわれも深く反省せざるをえない事柄である。しかし、くりかえすが、自分たちに対する批判や攻撃ばかりに目を向けて、自己が他宗教に対して払ってきた無礼な態度を反省する視点すら持たない、持とうともしないと言うのであれば、それもまた問題だと言わざるをえないだろう。それでは一方的な非難だとのそしりを免れないし、よくて水かけ論にしかならない。お互いが他者に対してこのように身勝手で傲慢な姿勢を持ち続けるかぎり、そこには真摯な対話の精神のカケラも生まれはしない。仏教徒に代表される多神教徒も、一神教に属するキリスト教徒も、ここはお互いに他者の視点をも考慮してものを見るよう心懸けるべきではないだろうか。わたしは今そのように思うのである。
次に、わたしは本サイトで必ずしも「聖書カルト」を問題にしたいわけではない。
たしかに「聖書に名を借りた支配」という文章の中で「信仰による人間疎外」の極端な例として聖書カルトの問題を取り上げはしたが、これはわたしがこの方面の話題にたまたま詳しかったからにすぎない。わたしはカルト化した特殊な教会のみを本サイトにおける批判対象にしているわけではなく、本サイトにおける批判的考察の対象は、あくまでもプロテスタンティズムを中心にキリスト教全体にわたる予定である。それだから、「このサイトでの批判は通常のキリスト教会とは関係ない事柄で、自分たちとは関係ない話題だ」とは思わないでほしい〔上記「聖書に名を借りた支配」中の「キリスト教ならば全て正しいか?」を参照〕。いずれにしても、破壊的カルトに限らず、「偽造宗教」は相変わらず世にはびこっているし、通常の宗教教団における「信仰による人間疎外」もその跡を絶たない。だから、これは宗教界全般にわたる問題でもあるのだが、キリスト教を批判的に見直すことを目的としている本論において特に取り上げた次第である。
「聖書の御言葉」を使った支配から自由になるためにも――聖書カルトに限らず、これはどのような教会、あるいはすべての成立宗教においてもそうなのだが――ここで述べている批判的アプローチはわれわれにとって避けて通れない重要な作業となる。それだから、一般の教会内における「信仰による人間疎外」からの自由はもちろん、霊の言(ことば)で書かれた聖書の「真意」に従って正しい信仰(姿勢・態度)を貫くためにも、クリスチャンは、聖書といえども――いな、《聖》書だからこそ――これを相対化して自分の頭や心で読み解いてゆく必要がある。自分の所属する教会が聖書根本主義の立場を取るにせよ、そうでないにせよ、聖書ないしは聖書の絶対視からの自由、言いかえれば聖書ないし聖書信仰の相対化〔補注1-2-1〕が必要となるのである。わたしはそのように考えている。もっともその相対化の作業には当然のこととして批判的なアプローチが含まれるため、わたし個人としては聖書に対するリベラルで批判的な(対話的)アプローチを重視する次第である〔批判の意義等については後述第3節他を参照〕。
誤解される向きも多いと思うので、ここでコメントしておくが、わたしは自分の信仰上の立場、特にその教義や教条をもってキリスト教を批判するつもりはない、ということである。何となれば、それをすることは、わたしが信奉する宗教の教義に照らして、わたしが個人的に違和感をいだくキリスト教を一方的に断罪することにもつながりかねないからである。序文でも述べたように、わたしの課題(テーマ)が「何故(なにゆえ)にして」ではなく、自分史的な「如何(いか)にして」の語りであればまた違ったアプローチもあるだろう。けれどもわたしの関心は、その「理由(なにゆえにして)」、すなわち「わたしは何故にしてキリスト教信仰を得るに至らなかったのか?」にあるのである。大変な作業になることは重々承知しているが、わたしはこの問題(テーマ)をキリスト教の教義や歴史にまでさかのぼって考察したいと考えている。そういった次第で、これは先にも簡単に述べたことだが、ここでは自分の信仰については必要最小限の言及にとどめ、詳しくその内容を云々するつもりはない。キリスト教に対してここでわたしが批判を展開する時も、自分の宗教が掲げる教義教条等は脇へおいて考察してゆく所存である。
ただ、誤解のないよう申し添えて述べておくが、わたしがここで自分の宗教を規準にしてキリスト教を批判するつもりはないと言っても、それにはある限界があるということである。それというのも、わたしが現在信仰している(自覚的な)宗教と、その宗教の教義教条を受け入れる前にわたしが無意識に持っていた(非-自覚的な)個人的な信念ないし信条とは必ずしもイコールではないからである。その両者はもちろんまったく別のものではない。けれども、この両者にはある程度の違いがあるのだ。多少わかりにくいかもしれないが(わたしにも説明が容易ではない)、若い頃にわたしが得た信仰は、それよりさらに幼い頃から培ってきたわたしの個人的な性向ないし心理的な傾向(それはわたしが無意識的に持っていた、あるいは無意識のうちに形成されたわたしの個人的信条だと言ってよいだろう)によって必然的に得られたものなのである。それは言い方を変えれば、わたしにふさわしい宗教(信仰)に神によって導かれたのだと捉えることもできる。事実わたしはそのように信じ確信している。それだから、個人の信仰上の立場なら脇に置くことも可能だけど(事実ここに限らず今までそうしてきた)、しかし、この前-信仰上の立場だけは、これを相対化すること(脇に置く)はできない。これはわたしの生き方にも関わることなので当然だが(いや、それは誰にとっても同じであろう)、それはしてはならないことなのだと思っている。そんなわけで、そのわたしの基本的性向ないし気質から形成されるかぎりでの、わたしの根源的かつ前-信仰上の立場においてキリスト教に対する批判を展開してゆくことには変わりはないことをここに改めてお断わりしておく次第である。
先にわたしは、プロテスタンティズムを中心にキリスト教全体にわたる批判を行ないたい旨を述べた。このことに関して少し補足すれば、わたしは東方正教会に関しては何も知らないに等しいので、考察の対象に上げるのはあくまでも西方キリスト教会に限られる。もっともカトリック教会に関しても大して詳しいわけではないので(カトリック教会に関してはその長所はそれなりにわかるのだけど、その問題点になると全くうとい、だから批判そのものが不可能なのである。もちろん十字軍の蛮行など通りいっぺんの批判は誰にでもできるけれど、それを行なっても個人的にはあまり意義を感じない)、当然の結果としてその批判の矛先はプロテスタント教会に集中することになる。ただしここでお断わりしておくが、プロテスタンティズムを中心に(西方)キリスト教を全体的に批判の対象とするとは言っても、やはりそれが特定のキリスト教の立場に限定されざるをえない。その特定の対象とは、具体的に言えばカルヴィニズムであり、さらに現代のキリスト教(一般)に関しては聖書根本主義的な立場のキリスト教に対する批判が目立つだろうことは否定できない。
そのことに関連して、多少余談ながら、「批判対象」ということに関してここでひと言コメントしておきたい。
わたしは、上で聖書カルト以外の実際の教会での事例については基本的に言及しない旨を述べたが、それは、詳しく知らない分野に対しては安易に批判はできない、よく知っている分野だからこそ批判することも可能となるからである。これはわたしのスタンスでもあるのだが、よく知りもしないことを批判対象にするすることにはもともと無理がある、よって、そのような批判はできるだけ避けるべきだと考えている。大体よく知りもしない事柄を批判しても、それはせいぜい「非難」にしかならないし、そのような安易な批判には建設的な意義を認めることはできない。ちなみに、これにはその批判対象を知識として把握しているという面もあるが、それに加えて感覚的にもその対象をよく理解している必要があろう。そうでなければ批判対象に対して主体的なコミットメント〔詳細は次頁の議論、特に「対話的コミットメントとしての批判」その他を参照〕などできはしないからである。だから、キリスト教を問題にすると言っても、その具体的な批判対象は先にも述べたように限られたものとならざるをえないわけである。
ただし誤解してほしくないのは、わたしが上記のように述べたからと言って、必ずしも「よく知らない分野に関しては口をつぐめ」と言っているわけではない。ましてや、「当事者でない人間は黙っていろ」などと言いたいわけでもない。よく知らない分野であれば、あるいは部外者であれば、そこで何が問題点となっているかを的確に認識することすらできないだろうし、そもそも批判など不可能なはずだ、ということが言いたかったにすぎない。
しかしながら、それでも何事か批判するという場合は、事実誤認も当然それなりに多いだろうが、そのような意味での知識の多い少ないに関わりなく、その対象に対して何らかの違和感なり疑問を感じているからに相違ないと思うのだ(それすらないのならば、それは単なる言いがかりにすぎない)。大体において、「火のないところに煙は立たない」という俚諺もあるとおり、何らかの違和感なり疑問をいだくという時点で、その人にはその対象に対する何らかの“感触”というものが多少でもあるはずなのだ。その違和感なり疑問なりを率直かつ誠実な態度で表明することはお互いにとって意義がある行為だと思う。そこで表明した内容が間違っていれば当然反論されるだろうが、それに対して当人は誠実に応対してゆけばよいだけのことである。そのやりとりの中で、訂正すべきは訂正し、それでも拭えない違和感なり疑問点が残るのであれば、それに対してさらに適切な表現を与えるべく――お互いに、あるいは自分の中で――対話を重ねてゆけばよいのである。
いつも思うことだが、知らないなら知らないなりの批判の仕方があると思う。それには、「自分が知らないこと(あるいは間違っていること)もある」という謙虚な気持ちを失わず、自分が知っている範囲の知識でもって、他者に対する敬意を失わず、あくまで誠実な態度で対話を続ければよいのである。そういったやりとりの中で自然と対象に対する知識も増え、こちら側に一知半解な見解があればこれが正されてされてゆくことになる。正直に言えば、わたし自身プロテスタンティズムに関しても知らないことは山ほどある。それでも、こういった精神で、一方的な非難にならぬようキリスト教について学び、かつ対話してゆく所存である。わたしも時に人からキリスト教に詳しいと言われることが多い(その中にはクリスチャンも含む)が、その知識も事実そのようなやりとりの中で学び、自然に増えてきた知識なのである。
上記と関連して、ついでながら二つ三つコメントしておきたいことがある。
それは、それではわたしはキリスト教の何を・どのように批判しようとしているのか、ということである。
まず誤解してほしくないのは、わたしがいくらリベラルな聖書学に親近感をいだいているからといって、必ずしも聖書学者の言うことを全面的に正しいと判断し信奉しているわけではない、ということである。ましてやリベラルな聖書学者の見解をもって保守的なキリスト教を批判する根拠としているわけではない。また、上記で詳論したように、わたしが個人的に信仰する宗教の教義を規準にしてキリスト教批判を展開するつもりもない。(これらの問題のうち、前者のリベラルな聖書学に対するわたしの見解等に関してはいずれ詳しく書きたいと思っている。また後者の個人的な信仰の問題に関しても、一連の論述がひととおり終わった後で、できれば後書き的な文章の中で詳しく言及したいと考えている。)
なお、ついでながら言うが、今後さまざまな著作から引用をすることがあると思うが、それらの引用はあくまでわたしの言いたいことを代弁してくれていると思うからそうするので、それも本来は論旨の補強材料として利用するにすぎない。なぜこんなことをわざわざ断わるかと言うと、クリスチャンの中には、過去にわたしが聖書学者の著書やその他の作家の著書からいくらか引用しただけで、「聖書に書かれてあること、あるいはイエス様の言うことは信じないのに、聖書学者や作家の言うことは信じるのか」と反発する向きも少なからずあったからである。もちろん共感しているからそれらの著作から引用することが多くなるわけだが、だからといって、わたしがそれらの学者や作家の主張を全面的に肯定しているわけではない。それに、わたしが非信者としてリベラルな聖書学の立場を是とするからといって、神(超越的・絶対的存在者)を信じていないというわけではない(そんな誤解をする人も実際多いのだ)。たしかにわたしには個人的に信仰している宗教があるし、むろんわたしは無神論者ではない。言うまでもなく十字架の贖罪などキリスト教の基本教理を信仰しているわけではないものの、イエスの奇跡などの事績や復活、聖霊の働きといった信仰者の体験的事実まですべて否定しているわけではないのである(むろん否定していないからと言って、それらをキリスト教の教義で認められているままの形で肯定しているわけでもない)。
次に誤解してほしくないことは、前節の冒頭にも簡単に触れたように、本サイトのタイトルおよび本頁の文章等を見て、わたしが「聖書信仰」をただそれだけで否定しているとは思わないでほしい、ということである。わたしが批判対象にしているのは「聖書」そのものではないし、「聖書信仰」そのものを否定したいと思っているわけでもない。わたしが批判対象としているのは、聖書や聖書信仰そのものというよりは、より正確に言えば、聖書やその内容に対する“信仰の在り方”なのである。「聖書の偶像化」〔参考:「聖書に名を借りた支配」中の「文字は殺し、霊は生かす―人を殺すこともある聖書解釈―」〕と言った場合も、クリスチャンが聖書という「書物」そのものを偶像崇拝しているなどと言いたいわけではない。わたしが問題にしたいことは、聖書に書かれたその内容を信じていると表明した場合の、その信仰の在り方、また聖書解釈の態度・姿勢なのである。
それだから、わたしは必ずしも聖書に対する信仰そのものを問題にしているわけではない。わたしは何もクリスチャンが聖書を行動の規範とすること自体を疑問視しているわけではない。わたしは先に序文にて「宗教は人間が人間になるためにある」という見解を簡単ながら表明しておいたが、そのような立場の下、聖書を規準にしたその判断なり行動なりが結果的に“人間疎外をもたらすようなものであるかどうか”を問うているのである〔補注2-2-1〕。これは聖書にも《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない》(マルコ 2:27)、また、《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》(マルコ 3:4、以上、新共同訳)とあるとおりである。この安息日の箇所を「律法」なり「聖書」なりに読み替えてみれば、わたしが言いたいことは一目瞭然であろう。イエスもはっきりと言っているとおり、聖書(この場合は律法。この時代、「律法と預言者」と言えば聖書そのものを意味したし、律法だけでも聖書を意味した)が絶対的な規準ではないのである。
さらに、自分で言うのは何だが、わたしは(今の時代では単純とも言われるかもしれないが)根っからの性善説論者だし、その意味でわたしの立場はヒューマニズム(humanism)であると言える。ただし、わたしの言うヒューマニズムは「人道主義(humanitarianism)」のそれであって、厳密に言えば「人間中心主義(Anthropocentrism)」としてのそれではない(もちろん人道主義にも限界があることはよくわかっているつもりだが、その点については触れないでおく。当然のこととしてわたしは保守的なキリスト教解釈を受け入れ難く感じるわけだが、キリスト教とヒューマニズムの問題についてはいずれ詳しく書きたいと考えている)。
そのような立場に対しては、「キリスト教はヒューマニズムではない」という発言が昔からよく聞かれる。最近は仏教者その他の非キリスト教徒でも、「宗教はヒューマニズムではない」という発言をする人も見られるようになった〔補注2-3-1〕。そして、これがわたしのような立場に対する反論にもなるのだろう。しかしながら、「宗教はヒューマニズムではない」という見解に対してはわたしもまさにそのとおりだと思うし、第一に「宗教はもともとヒューマニズムですらない」とすら言えよう〔補注2-3-2〕。ただ誤解してはならないのは、宗教(信仰)はもともと人間を越えているものなのであって、これはそのかぎりでのヒューマニズム否定であるということだ。それは、だから必ずしも「人間」の否定を意味しているわけではない。ここを勘違いすると大変なことになる。福音書に描かれたイエスの言動を見れば誰でもわかるだろうが、イエスの行動はとても「人間的(ヒユーマン)」だ。間違ってもこれを「非(反)人間的」だと思う人はいない。然るにプロテスタンティズムの問題は、人間中心主義としてのヒューマニズムを否定するにとどまらず、勢いあまって人間(性)の否定にまで突き進んでしまったことにあるとわたしは見ているのだ。個人的な解釈ながら、ここがキリスト教プロテスタンティズムが孕(はら)む最大の問題点なので、それは時に――もっともこれはクリスチャン自身には無意識の事柄ではあろうが――「イエス否定」をすら結実するのである。具体的な事例に関してはここでは触れないが(信仰による人間疎外や、その極端な形態としての聖書カルトの多発はその現われの一端であると言えよう〔「聖書に名を借りた支配―信仰による虐待と聖書信仰―」参照〕)、こうなるともはや(本来の意味における)キリスト教とは言えない。わたしが批判するキリスト教とは、最終的にはこのような人間否定を結実させるかぎりでのキリスト教なのである。まさに《樹(き)は果(み)によりて知らるる》(マタイ 12:33)であって、要するになぜそのような反Jesus的なキリスト教が生まれてきたのか。本サイト、特にこれから展開する本論においてその問題にアプローチ(対象への接近、働きかけ)をしてゆきたいと考えている。
そのような立場に対しては、「キリスト教はヒューマニズムではない」という発言が昔からよく聞かれる。最近は仏教者その他の非キリスト教徒でも、「宗教はヒューマニズムではない」という発言をする人も見られるようになった〔補注2-3-1〕。そして、これがわたしのような立場に対する反論にもなるのだろうが、しかし、「宗教はヒューマニズムではない」という見解に対してはわたしもまさにそのとおりだと思うし、第一に「宗教はもともとヒューマニズムですらない」とも言える〔補注2-3-2〕。けれども誤解してはならないのは、宗教(信仰)はもともと人間を越えているものなのであって、これはその限りでのヒューマニズム否定であるということだ。だから、それは必ずしも「人間」の否定を意味しているわけではない。ここを勘違いすると大変なことになる。福音書に描かれたイエスの言動を見れば誰でもわかると思うが、イエスの行動はとても「人間的(ヒユーマン)」だ。間違ってもこれを「非(反)人間的」だと思う人はいないだろう。然るにプロテスタンティズムの問題は、人間中心主義としてのヒューマニズムを否定するにとどまらず、勢いあまって人間(性)の否定にまで突き進んでしまったことにあるとわたしは見ている。個人的な解釈ながら、ここがキリスト教プロテスタンティズムが孕む最大の問題点なので、それは時に――もっともこれはクリスチャン自身には無意識の事柄ではあろうが――「イエス否定」をすら結実するのである。具体的な事例に関しては触れないが(信仰による人間疎外や、その極端な形態としての聖書カルトの多発はその現われの一端であると言えよう)、こうなるともはや(本来の意味における)キリスト教とは言えない。わたしが批判するキリスト教とは、最終的にはこのような人間否定を結実させる限りでのキリスト教なのである。まさに《樹(き)は果(み)によりて知らるる》(マタイ 12:33)であって、要するになぜそのような反Jesus的なキリスト教が生まれてきたのか。本サイト、特にこれから展開する本論においてその問題にアプローチ(対象への接近、働きかけ)をしてゆきたいと考えている。
最後に、もうひとつコメントしておきたいことがある。それは、批判批判とバカのひとつ覚えのように書いているが、「批判」という言葉でわたしが何を言いたいのか、何を訴えているのか。また、わたしは批判とはどうあるべきだと考えているか、ということである。(本節は本論から逸脱した部分もある上に、さすがに長くなったので頁を分割、以下にその内容を要約した。詳しくは次頁「有意義義な批判的対話のために」を参照。)
批判を毛嫌いする人は多いが、批判に対する時に過剰とも言ってよい日本人の反応を見るにつけ、わたしは最近「批判的」という表現ではかえって誤解を受けやすいようだと感じるようになった。そして、それでは「批判的」という言葉でわたしは一体何を言いたいのだろうかと少し自問してみた。そこで、わたしが批判という言葉で何をイメージしているか明らかにするためにも、「批判」という言葉から多くの人が受けるであろう誤解をできるかぎり解いておく必要があると思う。批判という言葉から受ける印象が世間一般の人とわたしとで違うとするならば、わたしは「批判」という言葉で何を言いたいのか。まずはそのことについて、ごく簡単にでもコメントしておきたいと思う。
結論を先に言えば、本サイトで言うところの「批判」とは、創造的行為の一環としての批判的かつ対話的なアプローチあるいはコミットメント(対象に対する傾倒、ないし相手に対して本気で関わる姿勢)である、ということになる。それが真に対話(批判的コミットメント)であるならば、その行為は同時にわたしの生き方を問い返すアプローチともなるはずである。わたしはそのように考えている。詳細は次頁にゆずるが、ここで簡単ながらその内容を要約的に示すことにする〔補説3-0〕。
この問題については、残念ながらそれについて今ここで詳細に論じている余裕がない。そこで、その代わりと言っては何だが、ここでは以前某所に公開した文章を参考までに以下に再掲する。→
批判はお嫌い?
とかく批判すなわち《攻撃》と取られやすいものですが、批判的なやりとりといえど本来は《対話》であるはずです。ここではキリスト教を例に批判的行為の意義を強調しておきたいと思います。
聖書には、《「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。》という言葉があります。自分たちにとって異質な価値観を持つ人々を敵視する「他者否定」の在り方(選民思想)を排し、その代わりに真に人道的な在り方を自らの生命をかけて開示したのがイエスその人であったのです。
このような形で律法(主義)を繰返し批判するイエスは、しかしその一方で、《わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。》とも言っています。矛盾とも見えるこのイエスの言葉の真意は、批判という行為を通して聖書を真の意味で《聖》書たらしめるためのもので、その意味でイエスの言動は妥協ではなく真の調和を求めての行為であったことが了解されます。
そんな訳でイエスの批判は、相手を批判することで、すなわち相手の誤ちを正すことで、あくまで「相手を正しい生き方に導きたい」との強い《愛念》から発しているのです。パリサイ人に対するイエスの批判はそれこそ激越を極めますが、これだって一人ひとりの具体的なパリサイ人たちをイエスがどれほど愛していたかの証拠だとは考えられないでしょうか? 《聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。》と言いながら、――これはイエスの憤りの言葉でもあると思うのですが、――そして殺されるのが分かっていながら、彼ら敵対者に対してイエスは愚直に「真理」を投げ与え続けたのです。批判するという行為には、実はこのように《愛》があるのです。
もっともそうは言っても、一般に宗教を信仰している人に批判を嫌う傾向が強いことも事実でしょう。しかし、本来は宗教の道に深まれば却って善悪の判断がつくようになり、批判力が鋭くなってゆくもので、無批判に何でも受容することが正しい宗教信仰の態度ではないはずです。それは仏教とて同様で、たとえば修行者を誰でも「法友」として対等に遇した釈迦の教団は、まさに当時のカースト制度に対するアンチテーゼであったとも解釈できるわけです。
批判するという行為は、このように、真理を真理たらしめるために、そして、真理を本当の意味でこの世に活かすために本来必要な行為であるのです。要するに批判的行為とは、人を真に自由にし、そのいのちを真に生かすかすためのもので、これこそは 仏教が究極的に求めるところでもあるのです。
皆様のご批判をお待ちしております。
※聖書の引用は日本聖書協会・口語訳聖書によりました。
→いろいろと考えてみた結果、どうやらわたしは「批判的」の語をコミットメントの意味合いで使っているらしいことがわかった〔コミットメントという語についてわたしがどのような意味を読み込んでいるか、その詳細な議論は、次頁の「補論:コミットメントとその意味について」を参照のこと〕。つまりわたしは、「批判的」とは「関わりのなさ(デタッチメント)」とは正反対の態度だと捉えているのである。またそれに加え、最近わたしは「チャレンジ」という言葉に注目するようになった。チャレンジ(相手にぶつかってゆくこと、挑戦)という言葉には非難はもちろん攻撃というニュアンスはあまり多くないように思う。わたしたちも他者から批判された時に「チャレンジされた」と捉えるようにすれば、さほど感情的にならずに相手に対することができるのではないだろうか。さらにわたしはアプローチという表現を何度か使ったが、アプローチとは対象への接近法ないし働きかけ、対象に迫ることを意味する言葉である。だからここで言う批判とは、批判的なアプローチ、すなわち批判的な形を介した対象への接近ないし働きかけの試み以外のなにものでもない。したがってコミットメントとは、対象に対するチャレンジないしアプローチ(対象への接近法)なのであり、批判とはまさにそのような行為を言うのである。
対話は本来自分が変わることも引き受けて行なわれるものであり、それは自他の生き方が問われる実存的な行為でもある。その意味で真に批判的な営みは対話的アプローチでもあるはずなのだ。それに、自分のことは自分ではわからないもので、わたしも含め大概の人は自分の考えや主張が全面的に正しいと無意識ながら考えて生きている。その思い込みを補正するためにも他者からの批判的アプローチは大切なので、そのためにも他者と真剣に関わり、そのやりとりを通して自己を知る作業が必要となる。
次にわたしは、自己目的化した批判はすべきではないし、批判をするならば自分が批判されることを忌避すべきではないと考えている。
批判が不毛なものとならないためにも、批判を行なう側の「動機」――すなわち、“どんな目的でその対象を批判しているのか”といった反省は極めて大切な視点となる。いくら動機があるからといっても、それが自己目的化した批判であってはあまり意味をなさない。自己変容の可能性に開かれていないやりとり、あるいは自己批判の契機を欠いた他者への一方的な批判は、結局は批判対象である相手と自分たちという「敵味方」図式をもたらすだけだし、それは容易に自己の立場の絶対化を招来する。わたしたちは往々にして自分たちを一方的に正しいと思い込みがちだが、そのことに対する反省は忘れてはならない。そのためにも、わたしたちは自分の行なう批判がただの一方的な攻撃になっていないか常日頃から自らを省みることが必要となる。
「批判をするな」という主張(それこそ立派な批判である)をよく見かけるが、この手の主張をする人間に限って、いざ相手を批判する段になると、批判と言うよりは単なる人格攻撃をしがちである。また、批判を嫌う人には、非論理的なタイプばかりでなく、実は意外と論の立つ人(いわゆる自分への批判は許さないタイプ)も見られるように思うが、その手の人間は、実は批判と言うよりは対話を嫌っているのだろう。わたしたちは“対話の姿勢があるかどうか”を問われているのである。時に自分ではあれこれ批判をしていながら、いざ相手から何か言われると腹を立てる人を見かけるが、このような人間は、自分の発言に責任を負えない、あるいは自分の発言に対する覚悟がない人なのだろう。日頃から批判の意義を主張し、批判的発言を行なっているのならば、相手からの反論は覚悟しなければならないし、それ以上に、そのような応答はこれを喜んで受け入れなければならない。これは批判ばかりでなく対話を行なおうとする者の責任であり覚悟である。
批判もまた対話的アプローチでありコミットメントであって、対話は自分が変わることも引き受けて行なわれる、要するに自他の生き方を問う実存的な行為である。だから、自分の意見が変わることを怖れる人、あるいは拒否する人には対話は不可能だ。また、対話的意図ないし何らかのコミット(自己投入=対象に向かって踏み込むこと)もなしにその対象ないし相手を一方的に非難しているような人がいるとしたら、それは批判というよりは「攻撃」と捉えた方がよいだろう。批判を含む意義のある宗教対話を行なうためにも、もっと他の思想や宗教に対する敬意ないし真摯な態度がお互いに必要となる。至らない点があればこれを改める勇気も必要だ。自己の信念が少しでも変わることを怖れていては対話そのものがもとより不可能なのである。
これまで相手に対して敬意を持つことを強調してきたが、どうしても敬意を持てない人もいるという反論が当然予想される。これに関してわたしは、“何に対して敬意を払うか”を考えたらよいのではないかと思っている。敬意には、相手の能力に対する敬意(条件付きの敬意)と相手の存在そのものに対する敬意の二つがあり、後者の敬意こそが対話(批判を含む)の基本だと思うからだ。尊敬できる何らかの能力を有した相手にしか敬意を持たないという態度は結局、能力のない奴は評価しない、切り捨てる態度だが、そのような態度では(自分より劣っていると判断した相手との間に)実りのある対話は成立しない。そこでわたしは、相手に対する敬意よりも先に、今後は「誠意」を重視するアプローチがよいのではないかと思うようになった。これもかなり形式的になる危険性はあるものの、相手に対して攻撃的な態度に終始するよりは、まずは何事も良識を弁えた丁寧かつ誠実な態度でやりとりをすることを心懸けることは決して間違っていないはずだ。人間存在に対する敬意を誰に対しても持てるようになるためにも、わたしたちは対象となる相手に対して心から興味を持って接し、あるいはその相手に対して誠実な関心を寄せることに徹することが肝要なのだ。それに加えて、“その相手に対して関心ないし興味を持てるかどうか”という視点がコミットメントには重要な要素となる。ここで言う興味は、単なる好奇心のレベルのそれではなく、「目の前のその人のことを心から知りたいと思う強い気持ち」と言った意味合いをこめて使っている。
論理的でありさえすれば誰もがその人の主張を受け入れるとは限らない。そういった相手を説得するには、その相手に対していろいろな側面からアプローチするのが当然だろう。およそ人間は一人で生きているわけではなく、しかも他者は自分にとって都合のよい反応をしてくれる存在ではない。いや、自分にとって都合の悪い反応をするのが本来の他者なのだ。そういった他者がいてこそ対話(議論)が成り立つので、その意味で議論や対話は一人ではできないのである。それに対して論理的であることを自認する一部の人は、自分にとって都合の悪い反応をする相手に対して当然敬意など払わないし、切って捨てる人も多い。議論を一人で行なっているかのような錯覚に陥っている人もいるかもしれない。そのため、相手が誠意を持って議論に臨んでいるか、あるいは何らかの正当な理由があって反論なり異論をはさんできたのだとしても、そんなことは無視をする人も多いようだ。しかし、それでは実りある対話は不可能だ。論理的であることを自認する人たちの問題点は、自分が論理的に思考するのはよいのだが、相手にも自分と同様に論理的であることを求めるところにあるのではないか。そのように都合よく論理的な反応をしてくれる人ばかりがこの世には存在しているわけではないから、その望みはあまり現実的だとは言えない。自分がいくら論理的思考に長けているからと言って、あまりに形式的な議論に固執すると、そのような訓練を受けていない、あるいはそれをあまり得手としない相手がいだく違和感や疑問を切り捨ててしまうことになりかねない。生産的たりえたかもしれないやりとりの可能性をその段階で切ってしまっている可能性すらそこにはあるのだ。
論理的思考に長けていない人との間の一見非効率とも見える時間のかかるやりとりは必ずしも無意味ではない。マスローは、本来曖昧で矛盾を孕んだ人間存在をその現実のままに記述する態度を真に科学的な態度だとし、そのためには科学者の側に《曖昧さに耐える勇気》が必要だと述べたと言う。本来曖昧なものを曖昧なままにしておくストレスに耐えられず、効率だけを求めて拙速に白黒をつけたがる態度は、やはり対話の精神からかけ離れたものだと言わざるをえないし、それはまた真に論理的で理性的な態度とは言えないのだ。
パソコン通信を中心とした掲示板(BBS)全盛時代と違い、近年は2chやTwitterといった短文投稿サイトが主流となった。書込みに対する返信も含め、近年は何事もスピードが要求される。そんな変化の中で、ネット空間においてギスギスしたやりとりが目立つようになってきたように思う。たしかに以前のように何事にも熱くになって議論する作法はもう流行らないのかもしれない。しかし、逆にそのように相手と本気で関わることを忘れつつあることが、ネットにおいて昔以上に要らぬ炎上をもたらしている原因でもあるのではないだろうか。しかも近年におけるネット上の書込みはその大半は短文の言い捨てで、中傷的な発言をする人が非常に多いのが特徴的なのだが、これでは対話が成り立つわけがない。かつてのように本気で議論すれば、そこそこ炎上も起こるし、時間ばかりかかって非効率極まりないだろうが、効率ばかりを求めて、時間のかかるやりとりを必要以上に嫌う姿勢は、結局は対話の精神を蝕(むしば)むことになる。物事に対して本気で関わろうとしないそのような態度が、かえって生産的な議論を生まない要因を育んでいるのではないだろうか。一見非効率とも見える時間のかかるやりとりも決して無意味とばかりは言いきれない。《曖昧さに耐える勇気》を持たず、効率だけを求める態度は、やはり対話の精神から遠いと言わざるをえないだろう。議論(ディベート)のノウハウ以上に大切なことは、その人が誠意を持って相手とやりとりをする気持ちがあるかどうか、そこに対話の姿勢があるか否かなのである。
わたしは上で批判もまた対話であるという前提で通してきた。批判もまた議論の形を取るかぎり、それはやはり対話なのである。それは、単なる効率ばかりを優先した論理的思考やそれに準じたたディベートとは本来異質なものである。そのやりとりがいくら非効率で時間ばかりかかるとしても、わたしたちは決してそのプロセスをおろそかにしてはいけない。対話ないし議論とは、お互いに違う価値観を持つ者同士が、そのお互いの違いをよく把握し、なおかつお互いに自分の意見をいくらか変化させながら、お互いを理解するやりとりだとわたしは思う。賽の河原の石積みにも似たそのプロセスをはしょらずに続けないかぎり、対話(議論)が実りあるものになることは決してないだろう。対話は「時にお互いが理解し合えないほどに違うことがある」という気づきから始まる。対話とはだから、それでもなおその相手を理解しようという強い意志とその相手に対する興味があって初めて成り立つ行為であると言えよう。
そういった次第で、わたしが言う批判的アプローチは、上記で述べたような不毛な「攻撃」ではなく、あくまで創造的かつ建設的な行為としてこれを行なってゆきたいと考えている。
以上いろいろと書いてきたが、要するに本サイトで言うところの「批判」とは、創造的行為の一環としての批判的かつ対話的なアプローチあるいはコミットメントである。当然ながらそれは単なる攻撃(aggression:これには侵略の意味もある)ではなく、ノン・クリスチャンからの主体的なチャレンジでもある。そして、それが真に対話(批判的コミットメント)であるならば、その行為は同時にわたしの生き方を問い返すアプローチともなるはずである。そのように考えて、わたしはこのサイトを運営してゆきたいと考えている。
以上長々と書いてしまったが、大略こんなことを考えて、今後もキリスト教に対して批判的なアプローチを行なってゆく所存である。