神を怖れる信仰は果たして正しい信仰なのか。ここでは、人間を越えた存在に対する畏敬の念と怖れについて考察してみました。
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神への怖れと信頼(2)
人間を越えた存在に対する畏怖の念と怖れ

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(ロマ 8:15)

 加筆しているうちにいささか長くなったので文章全体を分割し、なおかつ順番も入れ替えた。(2014年8月1日)


はじめに

 本論のテーマとは多少外れるが、神に対する怖れの問題を論ずる前に、もう一つ考えておきたいこととして、超越的存在者に対する畏怖の念と怖れの感情の問題がある。

 わたしはこれまでキリスト教において神に対する怖れを強調する見解に対していろいろと疑問をいだいてきたが、誤解をする人がいるといけないので、ここで改めてコメントしておきたいことがある。それは、わたしは人間を越えた存在者補注0-1に対する畏敬ないし畏怖の念まで否定しているわけではないということである。

補注0:

  • (1) その対象は、何もユダヤ=キリスト教の神、いわゆる一神教的な神ばかりでなく、大自然も含む。シュバイツアーの言う「生命への畏敬」などもこれに含むことができよう。したがって自然と区別した場合の人間を越えた存在として、キリスト教以外の信仰をも考慮して、「神」はもちろん「絶対者」という表現も避けて「超越者」という表現を用いる方がこの場合は適切かもしれない。

1:畏怖の念と怖れ

 大自然や超越者に対する畏敬の念を失った文明がどうなるか。この問題についていろいろと考えている人も多いと思う。

 科学技術の暴走は、いつか近い将来に人類の滅亡をもたらすかもわからない。現代人は今そんな漠然とした不安の中にある。そんな中で過剰に神への怖れを強調することはかえって悪しき結果を生むだけではないだろうか。結論めいたことを言えば、神に対する怖れを過剰に強調するだけでは、心理的にも歪んだ信仰者をつくるだけで、「信仰による人間疎外」(工藤信夫)の問題などにも見るように、かえって予期せぬ結果を生むことにつながるのではないだろうか。


 前世紀初頭以降、現代文明の危機が喧しく叫ばれるようになって久しいが、それもこれも技術文明のゆきすぎた発達にその原因がある。特に18世紀の啓蒙思想以来以来〔補注1-1〕、宗教が多くの人の心を捉えることができなくなって(これを一般に「世俗化」と言う)、人間の力を絶対視し、悪い意味の人間中心主義がはびこることになった。しかも、特に現代になって、自ら生み出した核(原子力)の力に代表される科学技術がかえって人類を亡ぼしてしまいかねない事態になってきた。それに対して、ただ単純に「自然に帰れ」と叫ぶのは、簡単ではあるが愚かな選択だ。しかしながら、人間を越えた存在や自然への畏敬の念、人知を越えた存在に対する謙虚な姿勢を復活させることは決して愚かな選択とは言えないだろう補注1-2。もっとも、それが宗教に可能かとなると疑問視する人も多いとは思うが(わたし自身は宗教に期待したい想いが依然強いのだが)、いずれにせよ人間が宇宙の森羅万象に対してもっと畏敬の念を持つべきことが大切であることに変わりはない。ただ、先にも多少論じたように、何が健全な怖れ(畏怖)の感情で、何が不健全な怖れ(畏怖)の感情なのか、これを正確に切り分けることは意外と難しい。古代や中世の信仰者であったら、自然に対して畏敬ないし畏怖の念を持つことなど誰でもごく普通にできたであろう。しかし、当時は何の努力も思索もいらず、誰でも自然に持てたこのような自然な感覚も、科学ないし技術(テクノロジー)の進んだ現代世界に生きるわれわれにとってはやはり極めて難しい感覚であると言わざるをえないのである〔→次節を参照〕。

 前世紀初頭以降、現代文明の危機が喧しく叫ばれるようになって久しいが、それもこれも技術文明のゆきすぎた発達に原因がある。特に18世紀の啓蒙思想以来〔補注1-1〕、宗教が多くの人の心を捉えることができなくなって(これを一般に「世俗化」と言う)、人間の力を絶対視し、悪い意味の人間中心主義がはびこることになった。しかも、特に現代になって、自ら生み出した核(原子力)の力に代表される科学技術がかえって人類を亡ぼしてしまいかねない事態になってきた。それに対して、ただ単純に「自然に帰れ」と叫ぶのは、簡単ではあるが愚かな選択だ。けれども、人間を越えた存在や自然への畏敬の念、人知を越えた存在に対する謙虚な姿勢を復活させることは決して愚かな選択とは言えないだろう補注1-2。もっとも、それが宗教に可能かとなると疑問視する人も多いとは思うが(わたし自身は宗教に期待したい想いが依然強いのだが)、いずれにせよ人間が宇宙の森羅万象に対してもっと畏敬の念を持つべきことが大切であることに変わりはない。ただ、先にも多少論じたように、何が健全な怖れ(畏怖)の感情で、何が不健全な怖れ(畏怖)の感情なのか、これを正確に切り分けることは意外と難しい。古代や中世の信仰者であったら、自然に対して畏敬ないし畏怖の念を持つことなど誰でもごく普通にできたであろう。しかし、当時は何の努力も思索も要らず、誰でも自然に持てたこのような自然な感情も、科学ないし技術(テクノロジー)の現代世界に生きるわれわれにとってはやはり極めて難しい感覚であると言わざるをえないのである

補注1:


2:驚きの感覚を忘れた現代人

 議論を進める上で、次に、畏怖や怖れの念と深いつながりのある《驚き》の念について、ここで簡単に述べておく必要があるだろう。

(1)宗教心の喪失と現代の危機

 見るもの聞くものすべてに対して目をきらきらと輝かせている乳幼児を見かけることがよくあると思う。子どもはまさに好奇心の塊である。しかし、自分もそうだが、人は成長して知識が増えるに伴い、そのような目の輝きを次第に失ってゆく。人類とてもそれは同様なのではないだろうか。

 個人と同様、世界に対する驚きの感覚を失った人類は、次第に霊的な感性を失い、その結果、必然的に世俗化した。自然に対する畏敬の念を忘れた人類は、次第に霊的な感性を忘れ、かくて過去の時代と比べてより動物的とも言える状態に陥ってゆくことになる〔以下の内容について詳しくは、ヴァン・デン・ベルク『現象学の発見――歴史的現象学からの展望』、特に「第三章 現代と宗教――その現象学」(立教大学早坂研究室訳、川島書店・1988年2月)を参照〕。そんな状況の中で、大自然に対する畏怖の念を人間が失うに至るのは理の当然であると言えよう。たとえばダーウィンですらその著書の中でクジャクの羽の美しさに感嘆の念を隠さなかったが、現代において科学の専門書で驚きの念が記されることは絶えてなくなった〔同書p.57~59〕。ここにおいて、科学的探求の中にもかつては残っていた《驚き》というある意味で宗教的・霊的な感性次項参照〕すら今や一切なくなってしまったかのようである。現代における科学的世界観は宗教的=霊的世界観に敵対しているかの感すらあるが〔同書p59〕、そんな状況の中にいる人間は当然ながら信仰を持たない。いや、持てなくなったと言った方が正確かもしれない。こうして霊的感性を失った現代人は、過去の人間に比べて単に知的なだけの性的な獣にすぎなくなった。これが人間の非人間化、すなわち現代社会における人間の霊的=実存的な危機(ベルジャーエフ)であると言えよう補注2-1-1

補注2-1:


(2)驚きの念の喪失と宗教的・霊的な感性の危機―その形骸化と宗教偽造―

 ここで、いくらか論旨から外れるが、少し論じておきたいことがある。
 先にも述べたように、わたしは宗教的=霊的な感性と《驚き》の感覚(センス・オブ・ワンダー:Sense of Wonder)とには相通じるものがあると見ているのだが、そのことについてここで少し説明を加えておこう。

 アリストテレスは、哲学は《驚き(タウマイゼン)》から始まると述べた。古代ギリシアにおいて一般に知の営み(愛-知)は神話からの決別に始まるとされるが、わたしは宗教とても最初は《驚き》から始まったことに変わりはないと考えている。その意味では驚きの念もまた宗教的な感性であると言えよう。ただ信仰の場合、哲学や科学とは違って、その驚きの体験はそれと同時に畏怖の念をも発生させたであろう。同じく《驚き》とは言っても、そこのところが哲学ないし科学の始原と宗教の始原にあった《驚き》の感覚との違いのひとつであると言えよう。

 このようなことを書くと違和感を持たれる方がいるかもしれない。というのも一般の哲学の入門書では、古代ギリシアにおける哲学の発生を「神話から哲学(自然学を含む)へ」という図式で説明しているものが大半だからである。このような疑問を持つ人は、たぶん宗教に属する神話と宗教から決別した哲学とは別物だとする人たちだと思う。もちろんそれは哲学史的には正しい理解ではあるのだが、ただわたしは、神話と宗教(信仰)に関しては、両者は深い関係はあるものの、厳密には別のものだと考えている。というのは、神話とは古代人の宇宙観=世界観によるこの世の森羅万象の「説明」であって、必ずしも実存的なレベルでの「信仰」(了解)を伴わずとも、その世界観をそのまま受け入れることは可能だからである補注2-2-1。かつてカントは「わたしは哲学を教えることはできない、皆さんといっしょに哲学するだけだ」と語ったと伝えられるが、何らかの哲学説をそのまま信奉しているだけではこれを哲学的な態度と言うことはできないのとそれは同じである。

補注2-2:

 もちろん神話にしても、あるいは何らかの宗教の教えにしても、それは、人間の力では克服することのできないさまざまな限界状況(ヤスパース)において、人がそれらに対して合理的に説明を与えようとしたものであるとも言える補説2-2-1。その最たるものが「死」であって、宗教において死生観が大きなテーマとなることもこれによって了解されよう。そして、その宗教なり神話が生まれた当初、すなわち人が限界状況を含むそれらの「端的な事実」に直面した際には、おそらくその根底には驚きの念や畏怖の念があったはずである。時にはその感情は絶望感やあるいは虚無感であったかもしれない。然るにそれらの体験が次第に形骸化して、それらの限界状況からうまくうまく身をかわすための手段、すなわち方便としての「説明」が一人歩きをするようになるとどうなるか。ここに宗教なら宗教(教義)の形骸化が生まれる。それは「宗教偽造」(谷口隆之助)にもつながる必然的な「運動」でもあると言えよう。神話的世界観とてもそれは同じで、それが当初の驚きの感覚を失ったからこそ古代ギリシアにおいて哲学的な思惟が生まれたのだと解釈することも可能なのである。ちなみにパスカルは信仰は賭だと述べたが、そのような契機を欠いて、ただ惰性で信じているだけの宗教の教義も当然ながら単なる形骸にすぎない。そこには驚きの念も畏怖の念もないと言ってよいであろう補注2-2-2

補説2-2-1:宗教的態度と呪術的態度


補注2-2(2):


(3)大自然への畏怖の念と宗教心

 最後に、ここで論じた宗教的感性としての大自然への畏敬の念は、キリスト教に限らず宗教一般の事柄として論じたことをお断わりしておく。

 非キリスト教徒としては上記の主張はごく当たり前の感覚だと思うが、それに対しては諸宗教とキリスト教を同一線上に論じることに疑問をいだく方があるかもしれない。たとえば「大自然への畏怖の念などはキリスト教以外の諸宗教にも認められる原始的な宗教感情であって、キリスト教のような高度な宗教が本来持つべき感情ではない」とする反論もあろう。あるいは「それらの原始的=自然的宗教における神(超越者)への怖れの感情は、人間に怖れをもたらす超越的な存在者である神々の怒りを宥めるための呪術的儀式でしかない」という反論も当然のこととして予想される。ちなみに、ジャン・カルヴァンも『信仰の手引き』(新教新書)その他で同様な発言をしているのだが、カルヴァンは逆に(倫理的・道徳的な意味も含めて)神を「もっと厳しく怖れよ」と言うのである〔詳細は次頁参照。ただし、神ないし超越者への怖れの問題もそうだが、残念ながら本論考中においてキリスト教と諸宗教との関係にまで議論を発展させている余裕はない


 生命への畏敬の念や大自然に対する畏怖の念と言った宗教的感情は、ひとえにすべての宗教がその根底に有する宗教的=霊的な感覚である。これはキリスト教以外の自然的で原始的な宗教だけが有する感情ではない。それはキリスト教を含むすべての宗教が有する超越者に対する原始的ながら本源的かつ本質的な感覚なのだ。しかしながら、その感情が原初的だからと言って必ずしも低次元な感情だと決めつけることは間違っている。然るに、近世のキリスト教的な価値観によってこれらの自然な感情がくりかえし否定されてきたがゆえに(その否定には、キリスト教ばかりでなく、18世紀以来の啓蒙主義的な価値観も大きくあずかっていると思うが、そればかりでなく、その根底において、古代ギリシア以来、西洋哲学において理性より感性を劣ったものと見なしてきた理性偏重の傾向も強くあずかっていると言えよう)、かえって宗教の形骸化(世俗化)が促進されたのではないか。そんな側面もあるようにわたしには思えるのである。


最後に

 最初にも説明したとおり、わたしは神(超越者)に対する畏怖ないし畏敬の念をすべて否定して、神をただ信頼すればよいと言っているわけではない。わたしにしても、大自然や超越者に対する自然な畏敬の念はたしかに現代人がぜひとも持たねばならない、あるいは復活させるべき感性だと思う。先に述べたとおり、人間を越えた存在に対する自然な畏敬の念を取り戻すためにも、神(超越者)に対する信頼の念をわれわれは取り戻すべきなのではないだろうか。ただその際、誤解を避けるためにも、「畏怖」という言葉よりは「畏敬(の念)」という表現を用いた方がよいのではないかと思うのだ。それというのも、最初は大自然に対する驚異や畏敬の念であったものが、次第にそれが畏怖の念となり、怖れの感情となったのではないかと考えるからである。そして、その怖れがさらに先鋭化した場合、それが一種の怯え(フォビア)のような歪んだ感情になってしまう可能性も否定できないのではないだろうか。わたしはそのような懸念を日頃からいだいているのである。

2012年9月18日アップ、2013年7月4日 ドメイン変更に伴い改訂、2016年9月13日 改訂/管理人:ヘレム=キラー メール
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